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燕山君・李氏朝鮮最悪の暴君

1 李氏朝鮮の国王

燕山君は李氏朝鮮の最悪の暴君といわれる国王です。

母が王妃にもかかわらず廃妃になり死亡するという複雑な生い立ちと、育った環境から偏屈な性格になってしまったのは仕方ないかもしれません。治世の全てが荒れていたわけではありませんが、儒学者と激しく対立して多くの犠牲者を出します。

史実の燕山君はどんな人物だったのか紹介します。

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燕山君(ヨンサグン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1476年
没年月日:1506年

名前:李㦕(イ・ユン)
称号:燕山君(ヨンサグン、えんれいくん)
父:成宗
母:廃妃尹氏(斉献王后)
妻:廃妃 慎氏
後宮
淑容張緑水 他12名

子供
廃世子李 他 8男8女

男子は処刑。

李氏朝鮮の10代国王です。

日本では室町時代後期になります。

おいたち

1476年。9代国王成宗の長男として生まれました。母は成宗の継妃・尹氏(斉献王后)。景福宮 交泰殿で生まれ、元子として育てられました。生まれたときから将来の跡継ぎ候補と考えられていたのです。

成宗には側室が多く、尹氏との関係はあまりうまくいってなかったようです。尹氏と側室も関係は悪かったようです。

王妃尹氏が成宗の顔を傷つけてしまい、姑の仁粹大妃の怒りをかって王宮を追放になりました。

1479年。燕山君4歳のとき。尹氏は廃妃になりました。
1482年。燕山君7歳のとき。廃妃尹氏は毒を飲み死亡しました。1483年。燕山君8歳のとき。世子になりました。

燕山君は、3番目の王妃・貞顯王后尹氏の息子として育てられました。世子は形の上では王妃の子供です。

一説には燕山君は貞顯王后を実の母だと思っていたともいわれます。即位する前には実の母はすでに死んでいることは知っていました。

勉強嫌いの子供時代

父・成宗は燕山君の将来を心配して廃妃のことを話題にするのは100年間禁止するよう命令します。

祖母の仁粋大妃は燕山君に厳しく、異母兄弟の普城君をかわいがっていたといわれます。

このような環境で育ったためか、燕山君は学問嫌いで偏屈な性格だったといわれます。

燕山君は許琛、趙之瑞らに学問を教わりました。許琛は優しく教えましたが、趙之瑞は厳しい教え方でした。燕山君と趙之瑞は口論になることもありました。燕山君が即位した後、甲子士禍のときに趙之瑞は処刑されます。

国王になる

1494年。成宗が死去。世子の燕山君が即位しました。

即位直後に、流刑になっていた母方の祖母申氏を釈放し、廃妃になっている母の名誉を回復することを約束します。しかしこのときは士林派の抵抗で廃妃尹氏の名誉回復は実現しませんでした。

暴君といわれる燕山君ですが、即位した最初の頃から荒れていたわけではありません。成宗時代から行っていた政策を引き継いで無難に政治を行っていました。

貧しい人々を救ったり、国朝宝鑑という歴史書を編纂したり。女真族や倭寇から国を守るため城を築いて国の守りを整えました。

戊午士禍

先代の成宗は儒学者を多く採用しました。彼らは士林派という派閥となり、大きな力を持つようになりました。士林派は燕山君の政治に不満でことごとく反対していました。

建国や世祖の代から仕えていた古い重臣たちは勲旧派とよばれ。士林派と勲旧派は対立していました。成宗の時代には力が弱くなっていた勲旧派は燕山君の時代に反撃を初めます。

1495年ごろから「朝鮮王朝実録 成宗実録」の編纂が始まりました。編纂が大詰めをむかえた1498年。

勲旧派の李克墩(イ・ククドン)は、士林派の金馹孫(キム・イルソン)の書いた原稿の中に自分を批判している部分があるのを知って憤ります。それは

金馹孫の師・金宗直(キム・ジョンジク)が世祖が端宗から王位を奪ったことを皮肉る内容の文章を書いていたことも見つけました。

李克墩は同じ勲旧派の柳子光(ユ・ジャグァン)と相談します。もともと柳子光は生前の金宗直に詩を書いた額を批判されて燃やされたことがあり、悪い感情を持っていました。

そこで、二人は金馹孫たちが王族を侮辱していると燕山君に告げ口しました。

日頃から口うるさく批判ばかりしてくる士林派を鬱陶しく思っていた燕山君は、よい口実ができたとばかりに士林派の粛清をはじめました。

金馹孫は捕らえられ死罪になり、士林派の多くも処刑や流罪になりました。

この粛清事件を戊午士禍(ムオサファ・ぼごしか)といいます。

母を廃妃にした者たちへの報復

戊午士禍の後、燕山君は以前から考えていた母の名誉回復を行います。

1504年。斉献王后(せいけんおうこう)の称号を贈りました。

しかし残っている士林派の官僚たちが反対しました。そこで士林派の多くいる司憲府を縮小し、司諫院、弘文、芸文館を廃止しました。これらの役所の施設を宴会場や厩舎にしてしまいました。

次に行ったのは母を廃妃に追い込んだ者たちへの報復です。

尹氏と対立していた貴人嚴氏、貴人鄭氏を処刑しました。二人の息子も処刑しました。

尹氏の名誉回復をめぐって病気がちだった仁粋大妃と口論になり押し倒してしまいました。その後遺症で仁粋大妃は死亡します。儒教の教えでは3年の喪に服さなくてはいけないのですが、燕山君は25日で終えました。儒学者から批判の対象になります。

士林派と勲旧派の一部、尹弼商(ユン・ピルサン)、李世佐(イ・セジョワ)らが処刑になりました。燕山君の学問の師で厳しく教えた趙之瑞も処刑になりました。

この粛清事件を甲子士禍(こうししか)といいます。

横暴がエスカレート

こうした粛清が続く中で、燕山君にうまく取り入り力を付けたのが任士洪(イム・サホン)でした。正室の兄・慎守勤(シン・スグン)らと共に政治を我が物にします。そのため勲旧派からも不満が高まりました。

その後も燕山君の行いはエスカレートします。

張綠水の悪口を言ったいう理由で側室を処刑して宮殿の中に吊るしたり。張綠水のスカートを妓生が踏んだという理由で処刑しました。

燕山君の行いと咎めようとした内侍の金処善(キム・チョソン)を弓矢で殺してしまいました。

こうなると誰にも止められません。

燕山君の横暴に抗議するため庶民が訓民正音(後のハングル)で書いた投書文が山積みになると。民が王を侮辱するという理由で訓民正音の使用を禁止して焼却しました。その後も民間レベルでは訓民正音は使用されることもあるのですが、国家としては訓民正音の普及活動はしなくなりました。

儒教を軽んじる王

成均館は儒学性が勉強する学校です。ですが当時の成均館は風紀が乱れており贅沢と怠慢になっていました。そこで燕山君は兵を送って儒学生を監視させました。

孔子廟への礼拝を止めたり、儒教の儀式を簡略化しました。無駄を省く合理的なやり方なのですが、儒教が支配していた朝鮮社会では衝撃的なことでした。しかし重臣たちの多くは儒教を守る人たちです。燕山君の政策に不満を持つ人は多かったことでしょう。

クーデターで失脚

1506年。左遷させられていた成希顔、朴元宗は柳順汀、辛允武たちとともに挙兵。燕山君の側近の愼守勤、任士洪を殺害して宮殿を占領しました。朴元宗は成宗と貞顕王后の息子・晋城大君を王にしました。

この反乱を中宗反正といいます。

燕山君は宮殿を抜け出して逃走。民家に隠れているところを捕まりました。捕まった後、すぐに廃位にはり江華島に島流しになりました。

江華島に流刑になって2ヶ月後。死亡しました。享年31.

燕山君の死亡後、人々の間には毒殺説が広まりました。

また張緑水は処刑。燕山君の息子たちも処刑されました。

なぜ君なの?

燕山君は王妃の子供なので「君」ではなく「大君」ではないの?思うかもしれません。でも廃妃された場合は嫡子と庶子の関係なく「君」扱いになるようです。 

テレビドラマ

ハンミョンフェ  KBS 1994年 演:イ・ミヌ
チャンノクス  KBS 1995年 演:ユ・ドングン
林巨正 SBS 1996年 演:ユ・インチョン
ホン・ギルドン SBS 1998年 演:ノ・ヨウングク
王と妃 KBS 1998年 演:アン・ジェモ
女人天下 SBS 2001年 演:キム・ヤンオ
宮廷女官チャングムの誓い MBC 2003年 
王と私 SBS 2007年 演:チョン・テウ
仁粋大妃 JTBC 2012年 演:チン・テヒョン
逆賊 MBC 2017年 演:キム・ジソク
7 日の王妃 KBS 2017年 演:イ・ドンゴン

 

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