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李芳遠の野望:歴史の授業で習わない 朝鮮の対馬侵攻(応永の外寇)

1 李氏朝鮮の国王

 

日本では知る人は殆どいませんがかつて対馬と朝鮮は戦争を行いました。

蒙古襲来(元寇、文永・弘安の役)のことではありません。元寇のあとの時代。室町時代に李氏朝鮮が対馬に攻めてきたことがありました。

元寇のように日本が国をあげて戦ったのではないので日本史には登場しません。でも対馬からみれば朝鮮の侵略です。

この戦いを日本の歴史では「応永の外寇」といいます。

このとき朝鮮側の指揮をとったのが上王・李芳遠(イ・バンウォン)です。

日本人の知らない対馬対朝鮮の戦いについて紹介します。

 

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朝鮮軍の対馬遠征:応永の外寇

室町時代の1418年。倭寇(日本の海賊)が朝鮮の海岸の村を襲撃しました。倭寇は明に遠征に向かう途中で朝鮮に立ち寄ったのです。朝鮮半島の庇仁と海州の沿岸が被害にあいました。

このころ国王は4代国王・世宗に変わり、3代国王・太宗(李芳遠:イ・バンウォン)は上王になりました。しかし軍事権は太宗(李芳遠:イ・バンウォン)が握っていました。

太宗は倭寇は対馬から来たと考えました。

そこで対馬に軍隊を送って倭寇退治をするか。明に向かった倭寇が帰ってくる途中を攻撃するか検討しました。その結果。本拠地の対馬を襲うことにしました。

つまり、倭寇の本拠地が手薄なときに攻撃することにしたのです。

太宗は対馬に1万7千の朝鮮軍を派遣しました。

当時、対馬を治めていたのは日本の守護大名・宗貞盛です。宗貞盛に対して「賊退治が目的なので、対馬を占領する意志はない」という内容の書状を送ったといいます。しかし、日本に伝わっていたかは定かではありません。

1419年6月(世宗1年)。朝鮮軍は倭寇の本拠地となっていた対馬の尾崎浦に来ると倭寇と戦闘になりました。島の奥に逃げる倭寇を追って朝鮮軍は住民を殺害し、家を焼きながら進撃しました。

もはや朝鮮軍の攻撃の対象は倭寇の本拠地だけでなくなりました。朝鮮軍は対馬の奥深くまで攻め込み。対馬の大名・宗貞盛との戦いになりました。

戦いは7月まで続きました。

しかし朝鮮軍は1万を超える大軍を送ったにもかかわらず、対馬を守る少ない兵に苦戦。膠着状態になりました。

和睦

やがて台風シーズンが近づきます。

宗貞盛は「元寇のときのようになるぞ」と朝鮮側に言って和睦をもちかけます。台風シーズンが近づいていつまでも対馬にいたくない朝鮮側。そして、早く対馬から出ていってもらいたい宗貞盛の思惑が一致。

9月には和睦しました。

和睦の交渉では太宗は対馬の領土を要求しましたが宗氏側が拒否しました。しかし宗貞盛に位を与えました。日本では中国や朝鮮からもらった官職は意味がありません。日本の朝廷や幕府から与えられる官職だけが意味を持つのです。

それで交渉がまとまるならもらっておくという程度にしか考えてなかったのでしょう。

でも中華思想(朝鮮も中華思想の国です)の国ではそうではありません。官職を与える=臣下にした。と考えるのです。中華思想の国では臣下のものは君主のもの。というわけで韓国人が対馬は韓国の領土と考える理由のひとつがここにあります。

でも、それを言うと朝鮮半島は中国の領土になります。朝鮮は明や清の冊封国です。明や清の皇帝から「朝鮮王」の称号をもらっているからです。

対馬を諦めきれない太宗はさらに対馬遠征を考えていたようです。倭寇の取締ではなく対馬侵略が目的になっていました。しかし兵士の集まりが悪く、実現できないままこの世を去りました。

倭寇退治が名目ですが、李芳遠(イ・バンウォン)は対馬を朝鮮の領土にしたかったようです。

世宗の倭寇対策

太宗のあとを継いだ世宗は懐柔策をとりました。世宗は朝鮮軍が対馬を武力で征服するのは無理だと思ったのでしょう。それなら倭寇が暴れないようにするしかありません。

朝鮮と宗氏の交渉の結果、宗貞盛は朝鮮から毎年米をもらうことになりました。世宗は倭寇が暴れるのは食料がないからだと考え、倭寇をおとなしくするために対馬に米を与えたのです。

また世宗は朝鮮に来た倭寇に土地を与え住民として暮らすことを許可しました。倭寇に妻となる女性を与えたりもしました。

世宗の懐柔策は功を奏して朝鮮に住み着く倭寇も出ました。結果的に倭寇の被害は減りした。

海賊にここまで便宜を図った国も珍しいです。そこまでしなければならないほど倭寇は怖かったようです。

 

勘違いの始まり

ところが宗貞盛は朝鮮から送られた米を室町幕府に「朝鮮から貢物を受け取った」と報告しました。

宗氏の報告を受けた室町幕府は「朝鮮が日本に朝貢している」と判断しました。

室町幕府だけでなくその後の日本の支配者も「朝鮮は日本に朝貢している」と考えました。豊臣秀吉が明への遠征のとき朝鮮に「明までの道案内をせよ」と命じたのも「朝貢国なのだから命令をきくのは当然」という意識があったからしょう。このとき朝鮮と交渉したのも宗氏でした。宗氏は祖先のおかげで苦労する羽目になったのです。

宗貞盛の二股外交のおかげで日本も朝鮮も勘違いすることになりました。その原因を作ったのも太宗(李芳遠:イ・バンウォン)なのです。

この戦いを日本では「応永の外寇」と呼びます。

朝鮮では「己亥東征」といいました。現在の韓国では「己亥東征」あるいは「第三次対馬征伐」といいます。「第一次」と「第二次」は元寇のことです。

応永の外寇は日本では三回目の元寇の前兆と考えられました。室町幕府から九州の大名に動員命令が出ました。もちろん三回目の元寇はありませんでした。しかも九州の大名が幕府の命令をうけとったときにはすでに朝鮮軍は撤退した後でした。

ところで朝鮮を襲った倭寇の本隊はこのときには対馬にはいませんでした。朝鮮を襲ったあと遼東を攻めて明に撃退されていました。

理由はどうあれ、倭寇の活動はおとなしくなりました。(世宗が行った倭寇への懐柔策も影響していると考えられます)

韓国ではドラマのネタ

韓国ドラマ「六龍が飛ぶ」最終回で太宗になったバンウォンが「対馬を火の海にする」と言っていたのはこの戦いのことです。

外国に攻められることの多い朝鮮において太宗(李芳遠:イ・バンウォン)は日本を攻めた数少ない国王です。そのため一部では人気があるようです。

まだ韓国ドラマ「大王世宗」でも数回にわたって「応永の外寇」に相当する戦いが放送されました。でもその内容は史実とは似ても似つかいないものになっていました。ドラマが描くほど朝鮮有利に進んだわけではありませんし、この戦いで世宗は中心的な役割は演じていません。九州と朝鮮との間の交渉もありません。交渉は宗氏が行いました。

第三次対馬征伐は世宗の時代になって行われました。そのため世宗の功績として語られることもあります。しかし軍事については太宗に権限がありました。実際には太宗が決定したことなのです。

 

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