阿莘王(アシン王)は百済の第17代国王です。高句麗の広開土太王と同じ時代を生きました。阿莘王が即位したのは百済と高句麗の戦いが激しさを増していたころ。
父の代で大きく領土を失ったため、阿莘王は領土を回復しようとします。しかし高句麗との戦いに破れ、服従を誓わされました。
その後、倭国(日本)と同盟。高句麗た新羅と戦いますが何度も敗退します。
半島で勢力争いが続く中で厳しい立場にいた阿莘王でしたが、百済と倭国の同盟は日本に大陸の文化や技術が入るきっかけにもなりました。
史実の阿莘王(アシン王)はどんな人物だったのか紹介します。
阿莘王(アシン王)の史実
いつの時代の人?
名前:阿莘王(アシンワン、あしんおう)
諱・本名は不明。
生年月日:不明
没年月日:405年
別名:三国史記には阿芳王、日本書紀では阿花王(あくえおう)と書かれています。
百済の第17代国王
日本では古墳時代になります。応神天皇とほぼ同じ年代です。
おいたち
産まれた年は不明。
父は百済第15代国王の枕流王(ちんりゅうおう)。
385年。枕流王が死去しましたが、阿莘王はまだ幼かったので叔父の辰斯王(しんしおう)が王位を継ぎました。
このころ高句麗との戦争が激化。百済は東晋と同盟して高句麗に対抗していました。
392年。高句麗の広開土太王が4万の兵を率いて百済に攻めてきました。百済北部の城がほとんど高句麗に奪われました。関彌城も奪われた城の一つです。
392年11月。狗原に狩りに出た辰斯王が戻ってこないという事件がおこりました。狗原の行宮(一時的に滞在する仮の宮殿)で死亡が確認されました。
辰斯王の死亡をうけて阿莘王が即位しました。
阿莘王が即位した経緯については日本書紀には別の経緯が書かれています。阿莘王が幼かったので辰斯王が王位を奪ったこと。その後、家臣の反乱にあい辰斯王は殺害され阿莘王が即位したと書かれてあります。
即位後の阿莘王
阿莘王は高句麗に奪われていた関彌城を取り戻そうとします。阿莘王は関彌城が百済にとって北を守る重要な城だと考えていました。
393年8月。王妃の父にあたる真武を左将軍にして1万の兵を率いて高句麗に戦いを挑みます。真武は勇敢な将軍でしたが、高句麗軍は籠城して抵抗しました。百済軍は食料が尽きて撤退しました。
394年にも百済軍は高句麗軍と戦いましたが敗退しました。
396年。広開土太王率いる高句麗軍に漢山城(京畿道広州市)まで攻め込まれ敗北。阿莘王は高句麗に服従を誓わされ、弟や大臣が高句麗に連行されました。
397年。しかし服従が不満だった阿莘王は倭国に使者を派遣。太子(後の腆支王)を人質に差し出しました。
398年。高句麗と戦おうとしたましたが、占いで不吉だと出たのでやめました。
399~400年。好太王碑によると百済は倭国と同盟して新羅と戦いました。高句麗は百済が倭国と通じていることを知ります。阿莘王は高句麗との戦いのため徴兵しましたが、あまりにも多くの人々を徴兵したため新羅に逃げる国民も出ました。
402年5月。倭国に使者を派遣。三国史記には「大珠を求めるため」と書かれていますが、大珠が何を意味するかはわかりません。
403年2月。倭国から使者が来たので手厚くねぎらいます。この年、百済は新羅に攻め込みました。倭国への使者は援軍の要請だったのかもしれません。
404年。倭国と連合して高句麗に戦いを挑みましたが敗退しました。
405年9月。死去。
太子は倭国に人質に出していたため、次弟の訓解が政治を行い腆支王の帰国を待つことになりました。
しかし末弟の碟礼が訓解を殺害して王になりました(百済の歴史では正式な王と認めない)。
一方、父・阿莘王の死亡を知った腆支王は号泣して倭国に帰国を申請。帰国が認められ倭国の兵をともなって百済に帰国しました。碟礼を処刑して腆支王が即位します。
阿莘王は高句麗に対抗するため倭国(日本)と同盟を結びました。軍事的な援助の見返りとして王子を人質に出す他に大陸からもたらされた文化を取引の材料に使ったようです。この時代には最新の文化は宝物にも勝る重要な輸出品になったのです。
しかしそうして倭国の援助をうけて新羅や高句麗と戦いましたが何度も敗退します。
儒教と漢字の伝来
古事記では応神天皇の時代に百済から王仁(和邇吉師)が献上され論語(漢字)と千字文(漢字を覚えるための長い詩)を日本に伝えたとあります。
時代的には阿莘王の時代になりますが三国史記には王仁の記録はありません。百済人ではなく楽浪郡にいた漢人が楽浪郡滅亡後に百済に亡命したのではないかとも言われます。また、この時代千字文はまだ存在してませんでしたが漢字を伝えたのだとされます。
テレビドラマ
太王四神記 MBC 2007年 演:ヤン・ジェヨン
広開土大王 KBS 2011年 演:パク・ジョンチョル
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