ドラマ「馬医」で人気の高いペク・クァンヒョン(白光炫)ですが、実際の彼はどのような人物だったのでしょうか?
この記事では、ペク・クァンヒョンの生涯を史実に基づいて詳しく解説します。
馬医から王の主治医まで上り詰めた彼の波乱の人生、そしてドラマとの違いについても紹介。
この記事を読めばドラマだけではわからない歴史上の実在の人物・白光炫の新たな一面を発見できるはずです。
- ドラマ「馬医」と史実の白光炫の違い:ドラマと現実のギャップはどこにあったのか?
- 白光炫の偉業:馬医から王の主治医へそして高官へ。彼の生涯とは?
- 白光炫を取り巻く環境:身分制度や偏見、そして彼を支えた人々
白光炫(ペククァンヒョン)の史実
どんな人?
光玹の漢字表記もあります。
字:淑微(スクミ)
本貫:林川白氏
生年月日:1625年
没年月日:1697年
白光炫が活躍したのは1625年~1697年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に18代顕宗~19代粛宗の時代です。
日本では江戸時代初期。
3代将軍 徳川家光(在位:1623-1651)~5代将軍 綱吉(在位:1680-1709)の時期になります
家族
母:昌寧 曹氏
妻:昌寧趙氏、淸州韓氏
子供:白興聲(ペク・フンソン)。白興齡、白興隣
ペククァンヒョンの実話
白光炫(ペク・クァンヒョン)は林川白氏出身。
父の白哲明(ペク・チョルミョン)は僉知中枢府事。特に重要な役職ではありません。
母の昌寧趙氏(チャンニョン・ジョシ) は 僉知中樞府事 趙徳建の娘。
似たような身分の家同士で結婚したようです。
医師を目指す
白光炫(ペク・クァンヒョン)は、若いころは馬医(獣医)をしていたと言います。
医学書を参考にせず鍼治療という方法を独学で学び、馬の治療を行っていました。ある時、白光炫は鍼を煮沸消毒することで馬の治療効果が上がることに気づきました。
あるとき落馬して怪我をしたのをきっかけに人の治療も行ったところ、効果があったのでその後は人の治療を行うようになったようです。
白光炫は煮沸消毒した鍼を用いた外科的な治療を専門としました。数多くの治療を行いその医術を磨き上げました。
医師になった白光炫
顕宗の時代に医官になる
顕宗の時代。
1663年に中枢府事の李景石(イ・ギョンソク)の推薦により内医院に入ります。
朝鮮王朝時代に王族や高官の治療を専門に行う宮中の医療機関。科挙の雑科に合格して入るのが一般的ですが、高い技術を持ち高官の推薦があれば内医院に入ることができます。許浚(ホ・ジュン)も推薦です。
李景石は領議政経験もある実力者ですが、このころは高齢のため第一線を退き中枢府事で名誉職のような地位に就いていました。
李景石にも白光炫の評判が届いていたのでしょう。
1670年には王の病気が回復したことを記念して内医院の医官たちが昇進。このとき白光炫もその中に含まれていました。
後に顕宗の御医(主治医)になりました。
消毒した器具を使って切開する技術が認められたといわれます。
顕宗だけでなく王妃・仁宣王后の腫瘍を治療しました。
粛宗の時代に県監になる。
1684年。粛宗は白光炫を康翎県監に任命しました。その後、抱川県監も務めました。
県監とは県知事のようなものです。朝鮮王朝で言う県とは現在の日本の県よりも小さな単位でした。県監とは市長のようなものです。
医官から行政の役人になるのは、かなりの出世です。
儒学者の嫌がらせ
ところがこの人事について司憲府や司諫院から反対意見が出て弾劾を起こされます。「白光炫は文字が読めない無学な者だ」との批判もあったようですが。内医院の医官が文字が読めないはずがありません。
白光炫は科挙に受かったことがありませんし、文官でもありません。それに対する嫌がらせでしょう。
でも粛宗は司憲府らの意見を認めず白光炫を任命しました。
その後、衿川県監も務めています。
粛宗17年(1691年)。知中樞府事(正二品相当)に任命されました。
1692年。崇禄大夫(正一品相当)に昇進しました。
脚気の治療
1695年。粛宗は脚気を患っていた領敦寧府事・尹趾完(ユン・ジワン)をクァンヒョンのもとに送り治療を受けさせました。
当時、医官は身分が高いとはいえませんでした。それでも医官出身ながら役人になり正一品まで昇進しています。
神医と認められる
馬医から医官になるのは当時の常識では考えられないことですが、医官が高い役職につくのも珍しいことでした。歴代の王からも信頼されていたことがわかります。
患部を切り開いて治療する方法はペク・クァンヒョンから広まったといわれるほどです。粛宗実録には「この世の神医」と書かれるほど当時としても王から信頼される名医でした。
白光炫の最期
白光炫は最終的に崇禄大夫知中枢府事という高官の地位にまで昇り詰め。
1697年に73歳で生涯を閉じました。
ドラマ「馬医」は実話ではない
ドラマ「馬医」は、朝鮮王朝時代の実在の人物、白光炫をモデルにした作品ですが、史実とフィクションが巧みに織り込まれたドラマティックな物語です。
史実と異なる点
- 出身と身分: ドラマでは主人公の白光炫が賤民の息子として描かれ、両班の身分を取り戻す設定になっていいますが、実際の白光炫は有力な家ではありませんが最初から両班と言われます。
- 司僕寺(サボクシ)にはなってない:司僕寺は王室の馬を管理する部署。白光炫が司僕寺にいたという記録はありません。
- 清に行った記録はない:劇中では使節に随行して清に行ってますが、白光炫が清に行った記録はありません。
- ドラマティックな出来事: ドラマでは白光炫が様々な困難や陰謀に巻き込まれ、激しい葛藤を経験する様子が描かれています。でも実際の白光炫の生涯はこれほどドラマチックだったかどうかは不明です。
- 恋愛模様: ドラマでは白光炫とチニョンとの恋愛が大きな軸となっていますが、史実では白光炫の私生活についてはあまり詳しくわかっていません。
西洋的な外科手術は行っていない
ドラマ「馬医」では、主人公のペク・クァンヒョンが現代的な外科手術を行ったり、人工呼吸を行うシーンが印象的に描かれています。でも実際の白光炫が行っていた治療法は現代の西洋的な外科手術とは違います。
鋭い刃物のような鍼を使うものの、皮膚周辺にある病変や化膿した箇所、膿を切除して治療するものです。切開して内蔵を治療するものではありません。
麻酔のない当時、人体を切開しての内臓の治療は非常に危険が伴います。
ドラマの制作者は「外科的な治療」と西洋的な「外科手術」を混同しているようです。
それでも人体に刃物をいれるのを嫌っていた李氏朝鮮社会ではかなり挑戦的な試みだったでしょう。傷の悪化による破傷風など命を落とす人が多かった時代には大変な医術の進歩でした。
史実に基づいている点
- 馬医から医官へ: 白光炫が馬医から出発し、最終的には王の主治医となったという点は、史実と一致しています。
- 鍼術の活用: 白光炫は、鍼術を駆使して多くの患者を治療したという記録が残っています。
- 王の治療: 白光炫は実際に王の治療にあたったという史実があります。
現実の困難
ドラマでは、ペク・クァンヒョンが身分制度の壁や偏見に立ち向かう姿が描かれています。これは当時の朝鮮社会では低い身分の者が高い地位に昇り詰めることがどれだけ困難だったかを表現しています。
現実の白光炫は賤民だったわけではありませんが、有力な家の出身ではありませんし科挙も合格していません。身分も医官です。彼の出世には様々な偏見や嫌がらせがあったでしょう。
- 偏見と差別: 白光炫は出身や経歴を理由に、多くの偏見や差別を受けた可能性があります。
- 学問と経験: 科挙を受けずに独学で医術を学びました。馬医をしていた経験もプラスになったかもしれませんが、偏見も大きかったはずです。
まとめ:「馬医」と実在の白光炫の違い
ドラマ「馬医」では馬医から王の主治医へとペク・クァンヒョンの姿がドラマチックに描かれていますが、歴史的事実はドラマとは違う部分が多くあります。
ドラマのような出生の秘密はありませんし。身分違いの恋もなかったでしょう。
でもドラマのペククァンヒョンが経験したような偏見や非難は、実際の白光炫も経験した可能性が高いです。
身分制度が厳格な朝鮮社会では、科挙を経ずに実力だけで高い地位を築いた白光炫は周囲から激しいバッシングを受けたことでしょう。
でも白光炫が医師として高い能力と実績を持っていたことは間違いありません。そんな彼を支持する人もいたのは確かです。
馬医 2012年、MBC、演:チョ・スンウ
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