中国ドラマは「大唐流流」には「王太妃」という人物が登場します。前の皇帝の側室です。
王太妃になったのは万貴妃です。
万貴妃は唐の建国者 高祖・李淵の側室。
明の成化帝の側室にも「万貴妃」と呼ばれる人はいますけれど別人です。
高祖・李淵の時代には皇后がいませんでした。李淵の正室・竇氏は唐建国前に死亡していたからです。
万貴妃は側室の中では一番地位が上でした。そのため万貴妃が事実上の後宮のトップでした。
高祖・李淵も万貴妃を大切にしていました。
史実の万貴妃はどんな人物だったのか紹介します。
万貴妃(ばんきひ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
名称:
称号:
父:万武剛
母:不明
夫:李淵
弟:万宣道
子供:李智云
彼女は唐の建国者 高祖・李淵の側室。
日本では飛鳥時代になります。
隋の時代
生年は不明。
いつかはわかりませんが。唐公・李淵(り・えん)の妾になりました。
604年。李智雲(り・ちうん)を出産。
李智雲は李淵の五男。李世民の弟です。
隋の大業年間の末期(617年)。
李淵が太原で挙兵しました。
このとき、息子の李智雲は異母兄の李建成・李元吉たちと一緒に河東にいました。李建成(り・けんせい)と李元吉(り・げんきつ)は太原に逃げました。
でも李智雲は河東に取り残されてしまい。隋に捕まってしまいます。そして武将・陰世師(いん・せいし)によって処刑されてしまいます。
唐の時代
618年。李淵は長安を占領して皇帝に即位。「唐」を建国します。
万氏は「貴妃」になりました。
息子の李智雲には「楚哀王」の称号が与えられました。
高祖・李淵の正妻・竇氏(李建成、李世民、李玄霸、李元吉の母)は唐の建国前に亡くなっていました。竇氏には死後になって「太穆皇后」の称号は贈られましたが。
李淵はその後も正妻はいなかったので。高祖・李淵時代の唐には生きている皇后はいません。
万貴妃が後宮の最高位でした。後宮の管理や儀式などでは事実上の皇后の役割をこなしていました。後宮のあらゆることは万貴妃の許可がないと決められません。
万貴妃は大人しく高祖・李淵に従順な人だったので、高祖・李淵からも大切にされたようです。
唐朝の諸王、妃嬪、公主たちからも尊敬されました。
武徳9年(626年)。李世民が反乱をおこして李建成、李元吉を粛清(玄武門の変)。
唐高祖が退位して太上皇帝になり。唐太宗・李世民が皇帝になりました。
万貴妃は「楚国太妃」になりました。
時期は不明ですが。死去。
高祖・李淵や太穆皇后と一緒に献陵に葬られました。
唐の記録は太宗・李世民を事実上の建国者のように描います。唐の高祖・李淵は建国者なのにあまり記録が残っていません。太宗・李世民を良く描こうという意図があるようです。
その影響で高祖の後宮で最も権威のあった万貴妃の記録もほとんどありません。
万貴妃とよばれる人物は歴史上、何人かいます。
有名なのは「明成化帝の側室・万貴妃」のほうですが。もちろん別人です。
「大唐流流」の王太妃
大唐流流 2021年、中国 演:潘迎紫 役名:王太妃
太上皇の側室。今はなき王子・世君(李智雲がモデル)の生母。
太上皇は皇帝の時代は後宮を仕切っていました。太上皇が譲位して、今の皇帝の時代になってからは後宮は皇后が仕切っています。
皇后の死後。王太后が再び後宮を仕切るようになりました。
太上皇も死亡。梁王に味方するようになりました。
梁王が今はなき息子の・世君に似ているからです。梁王は横暴な人物ですが、王太妃は梁王を守ろうとしました。梁王は太子に味方しています。
でも皇帝の妃・顔妃は自分の息子・周王を太子にしようとしていました。
やがて顔妃が後宮で力をつけてきます。王太妃は顔妃と対立するようになり、顔妃によって命を狙われ重傷をうけてしまいます。高齢だったこともあり、そのまま死亡してしまいます。
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