ドラマ「宮廷の茗薇」には、歌や歌劇が好きな貝勒(ベイレ)が登場します。
貝勒は爵位の名称なので個人名ではありません。
劇中の貝勒(ベイレ)は印象的な人物なのですが、残念ながら名前は設定されていません。
貝勒は四阿哥・ 胤禛(いんしん)、八阿哥・ 胤禩、十三阿哥・ 胤祥の従兄弟(いとこ)になっています。
名前がないということは実在の人物ではなくドラマオリジナルのキャラクターの可能性大です。でも清朝ならどの時代にも貝勒はいますし。 胤禛たちの従兄弟だっていたはず。
ということは康煕帝の時代に四阿哥・ 胤禛の従兄弟になりそうな貝勒がいればモデルの可能性あり!
といえますね。
というわけでいったい誰がモデルになっていたのか調べてみました。
満都護・海善兄弟
劇中の貝勒は胤祥たちの従兄弟です。貝勒は皇族に与えられる爵位なので「愛新覚羅」の一族なのは間違いありません。ということは貝勒の父は康熙帝の兄弟になります。
康煕帝には弟がいました。 恭親王・常寧(チャンティン)といいます。
恭親王・常寧には次男・満都護(マントゥーグ)と三男・海善(ハイシャン)という息子がいました。
この2人は歴史上実在した四阿哥・ 胤禛たちの従兄弟です。
海善が貝勒(ベイレ)になる
1703年(康熙42年)。父親の常寧が死亡。三男の海善が貝勒(ベイレ)になりました。次男の満都護ではなく、三男の海善が爵位を与えられたのは海善の方が有望とみられていたからでしょう。
1712年(康煕51年)。海善は宦官の不正行為を見逃していたので官位を剥奪されました。具体的に何をしていたのかはわかりません。
監督者の海善まで爵位を奪われるとはただごとではありません。巨額の横領事件があったのかもしれません。中国では賄賂は当たり前(むしろ当然の権利になってる)なので、よほど巨額でないと処分されません。これは今も昔も同じです。巨額と言っても家一軒建つくらいでは巨額とはいえないくらい日本とは規模が違います。
例えば八阿哥・ 胤禩はある役人を買収するために家一軒を買い与えています。その役人の配下がまるごと胤禩の支持者になりましたから安い買い物だったのでしょう。そのような賄賂が当たり前の時代でした。
雍正帝が皇帝になった時、国の財政は空っぽ寸前だったのですが。戦争や災害だけが理由ではなく、横領がひどかったことも影響したといわれています。そのため雍正帝は厳しい風紀引き締めをします。でもその話題は別の機会にいたしましょう。
満都護が貝勒(ベイレ)になる
理由はよくわかりませんが。とにかく海善が失脚しました。
その後、満都護が貝勒(ベイレ)になりました。
ところが満都護は何度も違法行為を繰り返していました。
違法行為が何だったのかはよくわかっていません。康煕帝時代にはとくに罰も受けていないようです。それほど巨額ではなかったのかもしれません。
1726年(雍正4年)。貝勒(ベイレ)から貝子(ベイセ)に降格しました。爵位がワンランクダウンしました。
その後、さらに鎮國公に降格。鎮國公は貝子の一つ下の爵位です。
2回降格になったので何か問題を起こしたのでしょう。
満都護は八阿哥・胤禩(いんい)の仲間でした。
雍正帝は即位後は八阿哥・胤禩や十四阿哥・胤祥の派閥を厳しく取り締まりました。派閥がらみで何か行動していたのでしょう。
1731年(雍正9年)。満都護が死亡。享年57。
海善の行動はよくわかりませんが、満都護は八阿哥・胤禩と親しくしていました。「胤禩を次の皇帝に」と活動していたので雍正帝からは危険人物と思われていたようです。
満都護、それか満都護と海善の兄弟を足したキャラクターがドラマの貝勒のモデルかもしれませんね。
ヌルハチの長男の家系・蘇努
因縁の一族
八阿哥・胤禩の従兄弟ではありませんが八阿哥・胤禩に協力していた貝勒(ベイレ)を紹介します。
それが 愛新覚羅 蘇努(スーヌ)です。
蘇努(スーヌ)はヌルハチの長男 チュエン(褚英)の子孫。チュエンはヌルハチとともに戦い、満洲人の国を作るのに貢献しました。でもヌルハチのあとを継いだのは8男のホンタイジでした。
ヌルハチが満洲(女直・女真)人を統一する前。満洲人は大まかにマンジュ国(明の呼び方は建州女直)、フルン四国(西海女直)、その他(野人女直)に分かれていました。
ヌルハチの出身はマンジュ国。満洲人の中では貧しい田舎者集団と思われていました。満洲で名門といえばフルン四国の王族ナラ氏です。
チュエンはヌルハチと同じマンジュ国のトゥンギャ(佟佳)氏の母から生まれました。
ホンタイジの母はフルン四国の名門イェヘナラ氏の出身でした。イェヘナラ氏は当時の満洲人社会では大きな力を持つ王家です。
ところがチュエン(褚英)はヌルハチの後継者気取りでした。
ヌルハチは全満洲統一のためには名門の協力が必要と考え、ナラ氏出身の妃から生まれたホンタイジを後継者にしました。もちろんホンタイジ本人にも優れた指導者になる素質があると見込んだのでしょう。そうしなければフルンを味方にできないという事情もありました。
ヌルハチと意見のあわないチュエンは拘束され失意のまま世を去りました。
ホンタイジ以後、清朝の皇后・妃に◯◯ナラという人が多いのは以上のような理由もあります。
もちろんチュエンの子孫は不満でした。「自分たちが作った国なのに、大切にされているのはよそ者だ」と思ったのです。
胤禩派の長老・蘇努
康煕帝の時代。チュエン(褚英)の家系を継いでいたのは蘇努(スーヌ)でした。
蘇努は満洲八旗のひとつ、鑲紅旗の総督です。皇帝にはなれないものの、皇族としてそれなりに影響力を保っていました。
蘇努は康煕帝に仕えて戦場で手柄をたてて信頼され貝勒(ベイレ)になりました。
蘇努はもちろん一族の地位向上のために手を尽くしました。
そして蘇努は八阿哥・胤禩を次の皇帝にしようと考えました。
1648年生まれの蘇努は康煕帝と同世代の人物。八阿哥・胤禩たちの従兄弟の世代ではありません。でも愛新覚羅一族の長老格として八阿哥・胤禩を支えていました。
チュエンの母方の家系・佟佳一族もそろって八阿哥・胤禩を支持していました。それも影響したかもしれません。
でも重臣たちの八阿哥・胤禩支持は露骨すぎました。重臣たちが康熙帝の目の前で一斉に「八阿哥を皇太子に」と言ったりするものですから康煕帝は激怒しました。
「みんなそろって八阿哥を支持するのはおかしい」と康煕帝は思いました。康煕帝は派閥政治が嫌いです。日頃から親しい臣下にも「朋党(派閥)には加わるな」と言っていたほどです。でも皇子や重臣たちは派閥を組んで争っていました。
その後、八阿哥は皇太子暗殺の疑いをかけられ康熙帝の信頼を失います。
結局、皇帝になったのは八阿哥・胤禩ではなく、四阿哥・胤禛でした。
蘇努たちの活動は実りませんでした。でも蘇努とその子どもたちは八皇子派との交流は続きました。
雍正帝時代に迫害を受ける
雍正帝も派閥政治が嫌いです。そこで雍正帝は徹底的に派閥を弾圧しました。八阿哥・胤禩への弾圧は厳しいものでした。
1724年(雍正2年)。雍正帝は蘇努から貝勒(ベイレ)の爵位を取り上げ、地方に移住させました。左遷です。
1726年(雍正4年)。蘇努は死亡します。
蘇努の子らも九阿哥 胤禟たちと親しくしていました。しかもキリスト教徒になってしまったのでさらに弾圧をうけます。蘇努一族と雍正帝の因縁、キリスト教の問題は雍正帝時代をかたるときによく出てくる話題です。かなり込み入った事情になりますしこの記事のテーマからは外れるので省略します。
蘇努は四阿哥・胤禛の従兄弟ではありません。同世代でもありません。親子ほどの年の差があります。
でも同時代に生きた貝勒(ベイレ)で、八阿哥・胤禩の支持者。というわけで紹介しました。
結局のところ「宮廷の茗薇」に登場する貝勒は歴史上の特定の人物をモデルにしたわけではないかもしれません。ドラマに必要だから作ったキャラクターなのでしょう。
でも同じ時代の貝勒には八阿哥・胤禩を支持した人もいたし、従兄弟の貝勒もいた。そんなひとたちをまとめたイメージで作られているのかもしれませんね。
貝勒(ベイレ)はどういう地位なのかはこちらで紹介しています。
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