中国ドラマ「星漢燦爛(せいかんさんらん)」の皇帝 文帝が登場します。
彼のモデルとなったのは後漢の光武帝といえそうです。
この記事では
- ドラマの文帝とはどういう人物なのか?
- なぜ後漢の光武帝 劉秀がモデルといえるのか?
について紹介。
さらには文帝と光武帝の複雑な結婚事情も紹介。
ドラマを見る前に光武帝劉秀のことを知っておくと、文帝の行動や気持ちをより深く理解できるかもしれません。
それでは文帝とモデルになった光武帝を紹介します。
ドラマ「星漢燦爛」の文帝とは
演:保剣鋒(バオ・ジエンフォン)
「夢華録」皇帝、「青天衙門」康熙帝
まずドラマの皇帝 文帝を紹介します。
かつて霍翀とは義兄弟の契をかわしていました。
今は凌不疑の義父となっています。
汝陽王の甥。
文帝は若いころは越姮と結婚していました。乾安王と同盟を結ぶため宣神諳と結婚。越姮を妾にしました。そして宣神諳を皇后に、越姮を側室の越妃にします。
ドラマの途中。ある出来事が理由で宣皇后が廃され、東海王太后に降格。越姮が皇后になります。
星漢燦爛は何時代?
「星漢燦爛」は「架空の王朝」の設定です。
タイトル「星漢燦爛」でもわかるように、漢の時代をモデルにしています。
漢には
- 前漢(紀元前206年~ 8年)
- 後漢(25年 ~ 220年)
二つがあります。
前漢と後漢に分かれているのは途中、重臣の王莽(おうもう)にクーデターを起こされて国を乗っ取られたからです。
王莽の政治はひどくで国は戦国時代のように荒れ果ててしまいます。その中から国を統一したのが劉秀(りゅうしゅう)という人物。
劉秀は漢を復興させて光武帝となりました。劉秀が建てた漢は「後漢」と呼びます。劉秀は漢王室の直系ではありませんが、祖先をたどれば皇帝にたどり着きます。
ドラマは劉秀の後漢をモデルにしているようです。
文帝のモデル・光武帝 劉秀
前漢にも「文帝」と呼ばれる皇帝はいます。
でも違うようです。
その理由はいくつかあります。
- ドラマの文帝は戦乱の時代を終わらました。前漢の文帝は皇位継承で混乱した後に即位しましたが、戦乱を終わらせたわけではありません。戦乱を終わらせた皇帝がモデルなら前漢の劉邦か後漢の劉秀のどちらか。
- 付き合っている人がいたのに同盟相手の娘を正妻にしたエピソードが劉秀にそっくり。
- 最初の皇后を廃して前から好きだった女性を皇后にしたのも劉秀と同じ。
というわけで前漢の文帝ではなく。後漢の光武帝 劉秀がモデルといえそうです。
光武帝 劉秀とは?
光武帝 劉秀は、乱世を終わらせて後漢王朝を建国した偉大な皇帝として知られています。その生涯はドラマティックなものでした。
力のない皇族の子孫
光武帝 劉秀は前漢の皇族の子孫として生まれました。でも彼の家は分家のそのまた分家で王族の爵位もなく、地方のいち豪族として暮らしていました。
劉秀が暮らしていた新野という地域でいえば地方豪族の陰氏の方が金持ちで裕福なくらいでした。
豪族にも相手にされない
劉秀は陰家の娘・陰麗華にあこがれていました。
でもいくら皇族の子孫とはいえ爵位も大きな領地もない劉秀は陰家から相手にしてもらえません。
前漢が滅んだ混乱の時代
劉秀が生きた時代は後漢が滅び、王莽の新王朝が成立。社会が混乱していた時期でした。王莽の政治は民衆の不満を招き、各地で反乱が勃発。劉秀もまたこの混乱期に巻き込まれることになります。
なぜ王莽がそんなに評判悪かったのかはこちらの記事を御覧ください。
昆陽の戦いでの活躍
劉秀は、最初は兄の劉縯と一緒に反乱軍に加わりました。
反乱軍は王莽の新に対抗するため、劉玄を担いで更始帝に即位させました。
漢の皇族・舂陵侯 劉熊渠のひ孫。劉縯・劉秀とは同じ一族ですが、劉玄の方が本家に近い。新朝末期に挙兵。劉縯・劉秀ほど優秀ではなく。反乱軍によって皇帝に担がれたのも、劉玄が扱いやすかったからとか。劉玄の国も「漢」。
昆陽の戦いでは劉縯・劉秀兄弟は圧倒的な新朝軍を相手に、わずかな兵力で奇跡的な勝利を収めました。この戦いで劉兄弟の軍事的な才能とリーダーシップが発揮され彼らの名声が高まりました。
このころあこがれの陰麗華と結婚。
でも兄・劉縯は更始帝に疎まれて殺害されてしまいました。その後、劉秀は更始帝から独立。独自の勢力を作りました。
そのとき、真定王 劉楊と同盟。劉楊の姪・郭聖通と結婚。
郭聖通を正妻、陰麗華を側室にしてしまいます。
後漢(ごかん)を建国・中国を統一
劉秀は様々な勢力を吸収して拡大。各地の勢力と戦いを繰り広げます。そして、ついに天下を統一。
後漢王朝を建国。皇帝の座に就きました。
その後も各地の勢力と戦って中国を統一。
安定した社会の構築
前漢末期から新朝期にかけて世の中は荒れ果てていました。そこで光武帝は社会を復興することに尽力しました。人口が減っていたので奴婢を開放、徴兵も止めて人々に農業を進め、生産力の回復を目指します。民衆の負担を軽減しました。
国作りには儒教を採用。王莽も儒教で国造りを目指していたのですが、現実的でない部分が多かったので不評でした。光武帝はより現実的な制度にして人々に受け入れやすくしています。
彼の治世下、後漢は安定した社会を築き上げ、200年近く続く後漢の基礎を作りました。
文帝と光武帝 劉秀の共通点
戦乱を終わらせた皇帝
劉秀は戦乱の時代を終わらせ、後漢を建国。安定した世の中を作りました。
ドラマはすでに平和な時代になっていますが。過去には戦乱の時代があったこと。文帝が戦乱を乗り越えて平和な時代になったことが語られています。
妻がいるのに同盟相手の姪を正妻→皇后にする
劉秀には若い頃好きだった陰麗華と結婚。ところが10万の兵をもつ真定王 劉楊と同盟するため彼の姪・郭聖通と結婚。妻だった陰麗華を側室にして、郭聖通を正妻にしてしまいます。
劉秀が皇帝になると郭聖通と陰麗華を二人とも貴人にしますが。やがて郭聖通が皇后になります。
文帝も最初は幼馴染の越姮と一緒になりましたが、乾安王と同盟するため彼の姪の宣神諳を妻にしました。宣神諳が皇后になります。
皇后を廃して最初の妻を皇后にする
光武帝は中国統一後、真定王 劉楊の勢力を排除。郭聖通を皇后から廃して、陰麗華を皇后にしました。
ドラマの文帝もドラマ後半では宣皇后を廃して越姮を皇后にします。
まとめ
ドラマ「星漢燦爛」の文帝は、後漢の光武帝劉秀をモデルにした人物であることがわかっていただけたでしょうか。
どちらも戦乱の世を終わらせ平和な時代を築いた偉大な皇帝といえます。
好きな人がいるのに政治的な理由で別の女性と結婚。その後、最初の妻に戻っていく…。私たち現代人から見ると理解できない結婚観かもしれません。でも当時の時代背景や、立場もあり考えてのことだったのでしょう。
史実の劉秀やドラマの文帝には様々な意見があると思います。
光武帝 劉秀は、単に武力だけではなく政治手腕や民衆への思いやりも持っていた人物として知られています。
ドラマでは文帝がどのような政治を行っていたのかは詳しく描かれていません。でも劉秀のエピソードから、文帝もまた民を思い平和な世の中を築こうとしていたと思いたいですね。
劉秀の波乱の人生とドラマの文帝の物語を重ねてみると、より一層ドラマを楽しめると思いますよ。
コメント