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朝鮮で最も有名な医女・長今(チャングム)の史実とは

韓国時代劇 6 李氏朝鮮の人々

韓国ドラマ「宮廷女官・チャングムの誓い(大長今)」で知られるようになった医女・チャングム。

朝鮮 中宗時代に長今(チャングム)という医女がいたのはわかっていますが。素性や生涯はなぞです。

ドラマ「宮廷女官・チャングムの誓い(大長今)」ではチャングムの名前は「徐長今(ソ・ジャングム)」となっていますが。「徐(ソ)」はドラマの設定。実際の姓はわかっていません。

ドラマでは若い頃に水剌間にいましたが。史実の長今(チャングム)は水剌間にいたことはありません。おそらくずっと医女です。

史実の長今(チャングム)とはどのような人物なのか紹介します。

 

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史実の長今(チャングム)

長今の記録は部分的にしか残っていません。詳しい素性もわかっていません。

そこで李氏朝鮮時代の記録「朝鮮王朝実録・中宗実録」から長今が出てくる部分を全て抜き出してみました。

 

医女 長今が章敬王后のお産に立ち会って罰を受ける

記録に最初に長今が出てくる記事。

中宗10年3月21日(1515年)

醫女長今,護産有功,當受大賞,厥終有大故,故未蒙顯賞。今縱不能行賞,亦不可決杖,故命贖杖,此,酌其兩端,而定罪之意也。

日本語訳:
「そのとき医女長今はお産に功績があり大いに褒美を受けるべきでしたが、大きな事故があったので報われることはありませんでした。彼女に褒美を与えることも罰することもできず。そこで彼女に贖杖(罰金)を命じました。」

解説:
大故(大きな事故)とは中宗5年(1515年)に章敬王后 尹氏(中宗の2番めの妃)が産後に亡くなったことです。

このとき長今はお産に立ち会いました。この時生まれたのが世子峼(仁宗)です。でも不幸なことに章敬王后は産後66日後に亡くなってしまいました。

王妃が死んだので杖刑(死亡することもあります)になるところでしたが、王子が無事生まれた功績もあるので罰金ですみました。

ところが別の意見が出ます。

中宗10年3月22日(1515年)

臺諫啓前事,又曰“醫女長今之罪, 又甚於河宗海。産後衣襨改御時,請止之,則豈致大故?刑曹照律,不用正律,而又命贖杖,甚爲未便。”皆不允。

河宗海(ハ・ジョンヘ)は医官です。河宗海は1515年に淑儀 羅氏の診察で薬を誤用したことがあります。医女長今の罪はその河宗海の罪よりも重いといって贖杖(罰金)で済ませたのは不適切だ。と反対している者がいます。

でもこの意見は却下されたようです。

 

大妃が回復して医女 長今たちが褒美を与えられる

中宗17年9月5日(1522年)

大妃殿證候向愈,上賞藥房有差。提調金詮ㆍ張順孫、承旨趙舜,馬粧一部、弓一丁、箭一部,醫員河宗海馬一匹、米太十石,金順蒙馬一匹,醫女信非、長今各米太十石,內官、飯監、別監亦皆有賜。

解説:

大妃が回復。国王が褒美を与えました。
医官たちに褒美が与えられ。
医女の信非(シンピ)、長今には米・豆十石が与えられました。

このときの医女の序列では信非が上、長今がその次ということでしょうか。
ドラマ「チャングムの誓い」でも医女チャングムの仲間として登場するシンピが登場。

 

医女 大長今が教育係に?

中宗19年12月15日(1524年)

傳曰“百工技藝,皆不可闕,而勸課節目,非不詳盡矣。但各司官員,不致力勸課,故卒無成效。其中醫術,尤爲大事,而不各別勸課焉,今之粗解其術者,皆成宗朝所敎養者也。今則其勸課事,何以爲之?其問于醫司以啓。且醫女料食,有全遞兒、有半遞兒。今者,全遞兒有窠闕,而不啓其應受之者,必以自下啓之爲難也。但醫女大長今,醫術稍優於其類,故方出入大內,而看病焉。此全遞兒,其授長今。”

解説:

現在、医術を理解しているのは成宗時代に訓練を受けたものだけである。どうすればいいのか。という意見が出て医局が対策することになりました。

医女には全遞兒と半遞兒がいるが、全遞兒が不足している。にもかかわらず下の者が上に上がれていない。

医女・大長今は他の医女よりも医術が優れているので大内(王族のいる空間)に出入りして病を診ている。その大長今に全遞児を任せよう。

という内容です。

遞兒は業務をしているが位を持っていない人(医女には官位がない)。全遞兒は全額給料をもらっている人。半遞兒は半額給料をもらっている人。大長今に未熟な医女を教育させようという提案でしょう。

 

医女 大長今と銀非(ウンビ)に褒美を与えられる

 

中宗28年2月11日(1533年)

傳曰“予累月未寧,今幾差復。藥房提調及醫員等,不可不賞。左議政張順孫熟馬一匹,禮曹判書金安老、前都承旨丁玉亨、常山都正末孫加資,常山都正獻藥於患腫之初,易至濃潰,故亦在賞列。醫員河宗海加資准職,同知朴世擧、洪沈加資,各賜米太六石,金尙坤加資,兒馬一匹,金守良、盧漢明,掌務官員等,各兒馬一匹,醫女大長今、戒今各米太幷十五石、官木緜正布各十匹,湯藥使令等,賞賜有差。”

 

王が数ヶ月隊長が悪かったようですが回復したので。医員の医官たち、医女 大長今や戒今に褒美が与えられました。。

 

中宗39年1月29日(1544年)

傳于政院曰
“予頃者感寒,得咳嗽證,久未視事,故少差而爲經筵,其日適寒,前證復發。醫員朴世擧、洪沈及內醫女大長今、銀非等議藥事,曾已下諭也,此意言于內醫院提調。且中和 二月初一日。 晝物, 別進御膳 亦可停矣。”

中宗39年2月9日
傳曰“內醫院提調尹殷輔、鄭順朋,各賜熟馬一匹;都承旨李瀣、醫員朴世擧、洪沈皆加資;柳之蕃、韓順敬,各兒馬一匹;醫女大長今,賜米、太幷五石;銀非米、太幷三石;湯藥使令,各給官木綿二匹。”

 

王が風邪をひいて咳がでるようになったので医官の朴世擧、洪沈が診察。医女 大長今、銀非が薬を用意。その後。回復したようで、医官や医女 大長今、銀非(ウンビ)に褒美が与えられています。

ドラマでもウンビは有能な医女として登場します。

 

中宗の看病記録

56歳の中宗は寝込むようになりました。

王を診察・看病する医官・医女の中に長今もいます。

 

中宗39年10月25日。

庚寅:議政府、中樞府、六曹、漢城府堂上及大司憲鄭順朋等問安,
傳曰“知道。” 是日醫女長今出言:“去夜三更,上入睡,五更,又暫入睡。且小便暫通,大便,則不通已三日。”云。醫員朴世擧、洪沈入診脈,則左手肝腎脈浮緊,右手脈微緩。更議藥劑,五苓散加麻黃、防己、遠志、檳榔、茴香,五服以進。

解説

王の体調が悪かったので重臣たちが御見舞。
医女 長今が王の排便の様子を報告。医官の朴世擧、洪沈が診察。薬を処方したという記録。

 

中宗39年10月26日

傳曰:“予證,女醫知之。”
女醫長今言“去夜煎進五苓散二服,三更入睡。且小便漸通,大便則如舊不通,今朝始用蜜釘。云。

解説

王は「余のことは女医が知っている」と言い。
女医長今は「昨夜は五苓散を二服煎じ、三回目で眠りに入りました。 尿は次第に晴れたが、腸は以前のようにすっきりせず。今朝は密針を使いました」と看病の様子を報告。蜜釘が何かは不明。

 

中宗39年10月29日

朝,醫女長今自內出曰:“下氣始通,極爲大快。”云。

解説

朝、医女 長今が出てきて「下の気が通じ始めた。快腸です」と報告。

長今の文字が載っている記録はこれが最後。

その後は中宗の病状も切迫したのか固有名詞はでてこず医女と紹介されるだけ。医官や医女達による看病の様子が続きます。

そして中宗39年11月15日(1544年11月29日)中宗は死去しました。

長今は最後まで看病につきあったのでしょう。

 

史実の長今(チャングム)とは

年齢は?

長今の生まれた年や死んだ年はわかりません。
何歳まで生きたのかもわかりません。

長今が初めて記録に出てくるのは中宗10年3月21日(1515年)。

最後に名前が出てくるのが中宗39年10月29日(1544年)。

その間、30年近く医女として働いていたようです。

中宗10年に15歳だったとしても中宗39年には45歳です。

しかも中宗10年には王妃の出産に立ち会っています。このときの長今の判断が後で責任追求されるのですから。指示通りに動いている下っ端ではないでしょう。すでに中宗10年にはある程度、実績を認められた医女だったのかもしれません。

中宗19年の記録に「医術を理解しているのは成宗時代に訓練を受けたものだけである」の後に「医女・大長今は他の医女よりも医術が優れているので大内に出入りしている」と続いています。中宗19年にはすでに王族を診ているのですからかなりの実績と信頼を得ているはずです。

さすがに長今が成宗時代(1494年まで)に教育を受けていたら中宗39年(1544年)には60代半ばになってしまいます。そこまで古くはなくても50歳くらいまでは医女をしていたかもしれません。

 

チャングムは2人いる?

記録では「長今」と書かれている所と「大長今」と書かれている所があります。

偉くなったから「大長今」という説もありますが。中宗の死の直前、看病しているときは「長今」しか出てこないのはどういうことでしょうか。

もしかすると長今という同じ名前の医女が2人いて片方を「大長今」と呼んでいたのかもしれません。

「大」が何を意味するのかは諸説あります。姓ではないようです。「大」は地位が高いか年長者かどちらかでしょう。

また中宗実録に出てくる長今は全て同一人物で。同じ時期に長今という医女が他にもいたので区別していただけかもしれません。

 

長今(チャングム)は看護師長?

「予證 女醫知之。女醫長今言」の部分から。王のことを何でも知ってる女医が長今という事になり。

「じゃあ王の主治医だ」と飛躍してドラマの「チャングムの誓い」が生まれました。

中宗の会話では「女医」となっていますが、前後の部分では「医女」ですね。公式な身分は医女なのでしょう。

漢文をよく読むと、長今は王をつきっきりで看病していたので王の体調をよく知っている。介護した様子を医官に報告している様子が記録されています。

長今は医女としては王の信頼も厚く優れていたようです。でも主治医ではなく。看護師長のようなものだったのでしょう。

 

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