趙思義の乱は1402年の朝鮮で起きた争い。
趙思義が太宗 李芳遠に対して起こした反乱といわれます。
この反乱には李成桂が関わっていたともいわれます。
趙思義の乱とはどういう出来事なのか。
反乱を起こした趙思義はどのような人物なのか紹介します。
趙思義(チョサイ)
趙思義(チョ・サイ、サウィ)は高麗末期から朝鮮初期の役人。
高麗の恭讓王の時代。1390年。
鄭道傳(チョン・ドジョン)の推薦で文官になりました。
朝鮮建国後は刑曹議郞などの役職につきました。
李成桂(イ・ソンゲ)支持派の役人になりました。
1402年(太祖2年) 世子の妻・賢嬪 柳氏と宦官の李曼の不倫が発覚。このとき趙思義は柳氏のことをむやみに口にしたとして解任されました。
その後、僉節制使に復帰。
1398年(太祖7)には投獄されましたが。釈放され安邊府使になりました。
こうしてみるともともと問題の多い人だったようです。
神徳王后 康氏の親戚
趙思義は神徳王后 康氏の甥です。
しかも鄭道傳の推薦で役人になってますから、神徳王后 康氏・鄭道傳には近い人間です。
当然、神徳王后 康氏の息子 李芳碩(イ・バンソク)が即位するのを楽しみにしていたでしょう。
ところが神徳王后が亡くなると、鄭道傳や世子だった李芳碩が殺害されました。
もともと太宗 李芳遠に恨みを持っていた人物といえそうです。
趙思義(チョサイ)の乱
反乱が起きるまでの経緯
1392年。朝鮮が建国。
李成桂の第二夫人 康氏が王妃に、八男 李芳碩が世子になりました。
1396年。神徳王后 康氏が病死。
1398年。太祖 李成桂が寝込むと李芳遠たちが挙兵。
鄭道傳、李芳碩が殺害されました。
(第一次王子の乱)
李成桂は譲位させられ、定宗 李芳果(イ・バングァ)が即位。
1401年。
李芳幹(イ・バンカン)と李芳遠が戦い、李芳遠が勝利。
定宗が譲位して太宗 李芳遠(イ・バンウォン)が即位しました。
(第二次王子の乱)
むりやり譲位させられた李成桂(イ・ソンゲ)は権力争いに嫌気がしたのか、王宮を出て京畿道の檜岩寺に引きこもりました。
太宗は私兵の禁止を決定します。
趙思義が挙兵
1402年11月。安邊府使の趙思義は康慶とともに挙兵しました。
康慶(カンヒョン)は神徳王后 康氏の甥です。
挙兵の理由は「神徳王后 康氏の仇を討つため」
もちろん宜安大君 李芳碩の仇も討つつもりでしょう。
趙思義と康慶は李芳遠を排除して李成桂を王に復帰させるつもりだったのかもしれません。
趙思義たちの兵は6千~7千もいたといいます。なぜこんなに兵がいたのかというと。この地域には女真族の住む地域に近いので私兵を残していたのです。趙思義はその兵を味方に付けたのです。
康慶たちは咸鏡道や平安道を暴れまわりました。
最初の討伐は失敗
太宗は挙兵の報告を聞くと、朴淳(パク・スン)や宋琉(ソン・リュ)などを派遣して反乱軍を懐柔しようとしましたが、使者は殺害されてしまいます。
さらに漢城(ソウル)から李天佑の部隊を派遣しました。
ところが李天佑率いる官軍は趙思義たちに敗北してしまいます。
太宗 親征
すると太宗は自ら出陣することになりました。
太宗率いる部隊は、平安道安州で反乱軍と戦い破りました。反乱軍は川を渡って逃げようとしましたが、多くが溺死。
趙思義は生き残った兵とともに安邊にもどりましたが、そのころには50人程度に減っていたといいます。
趙思義たちは捕らえられ処刑されました。
李成桂も反乱に関わっていた?
太宗即位後の上王 李成桂の行動
趙思義の反乱が起きたときの李成桂の行動は次の通り。
1398年。
太祖 李成桂が定宗に譲位した後、咸興に行きました。
1400年。
太宗 李芳遠が即位。
太宗は上王 李成桂を連れもどすために成石璘(ソン·ソクリン)を派遣。
1401年4月。
李成桂は成石麟の説得を受けて漢城に戻りました。
1401年11月。
太祖が再び漢城を離れます。
太宗は王師 無学大師を派遣。太祖は都に戻ると約束しますが、なかなか戻らず逍遥山に滞在ました。
次に成石麟を派遣。成石麟は経を読む場所がなぜ逍遥山でなければいけないのかと質問すると。李成桂は「二人の息子と一人の義理の息子のためだ」と答えます。
二人の息子とは七男 李芳蕃(イ・バンボン)と八男 李芳碩(イ・バンソク)。義理の息子とは慶順公主の夫・李済(イ・ジェ)です。
成石麟は戻って太宗に「いつ戻るかわからない」と報告。
1402年11月。
趙思義の乱が発生。
趙思義の乱の鎮圧後。
鎮圧軍は咸興にいた李成桂の身柄を保護。
1402年12月。
李成桂が都に戻ってきました。
太宗は李成桂を連れ戻った李春禹と李斌に褒美を与えています。
李成桂は反乱に関わった?
これだけを見れば李成桂が直接、趙思義の反乱に関わっていたかわかりません。
でも、李成桂が王宮を離れたあとに趙思義の乱が起こり。趙思義の乱鎮圧後に、李成桂が連れ戻されています。
上王 李成桂が亡くなった息子たちのことを思い続け、太宗 李芳遠を恨んでいたのは確かでしょう。
積極的に反乱を主導したかどうかはわかりません。
でも、私兵廃止に反対して太宗に反感をもつ人たちが李成桂を担ごうとしたのは十分起こりそうです。
趙思義は康氏に近い立場の人ですし。
太宗が李成桂の行動を怪しんだり、反乱勢力に担がれないよう身柄を確保したのは当然かも知れません。
李成桂は太宗の使者を殺していない
韓国史関係の書籍などでよく「李成桂は太宗が派遣した使者を次々に殺した」と書かれていますが、事実ではありません。
殺されたのは太宗が趙思義の乱を鎮めるために派遣した使者です。
太宗が李成桂に派遣した使者はいずれも無事戻ってきました。
朝鮮中期以降。趙思義の乱で太宗の使者が殺された事件と、太宗と晩年の李成桂の仲が悪かったのを混同した人々が勝手な物語を作って流していたようです。
この故事が
「咸興差使(ハムフンチャサ)」ということわざになって。
「知らせがない」という意味や「一度行った人は戻ってこない」という意味として使われています。
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