韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」の主人公 チュモンは高句麗の建国者 東明聖王がモデル。
東明聖王 朱蒙(チュモン)の生涯は三国史記をはじめとする様々な史書に記されています。でも、伝説的な要素が多く実像は謎に包まれています。
この記事では朝鮮半島最古の歴史書「三国史記」や様々な歴史の史料を基に東明聖王の生涯をたどります。
そして伝説ではない史実としての高句麗の建国に迫ります。
高句麗のの歴史に興味のある方、朱蒙(チュモン)の実話・史実を知りたい人もオススメです。
三国史記による朱蒙(チュモン)の家系図
以下に歴史書「三国史記」をもとにした東明聖王 朱蒙(チュモン)の家系図を紹介します。
文献によっては家族関係が違うこともあります。
テレビドラマ「朱蒙(チュモン)」の人間関係はこれをもとにアレンジされています。
三国史記に描かれる東明聖王の生涯
東明聖王はいくつかの史書に登場しますが伝説化して詳しいことは分かりません。
一番よく知られているのが三国史記・高句麗本記の内容です。
三国史記は1145年に高麗で書かれました。まとめるとこうなります。
扶餘 金蛙王の時代
扶餘の金蛙王は太白山の南の川で「河伯の娘」と名乗る 柳花(ユファ)と出会いました。
柳花は兄弟たちと遊んでいた時に「天帝の子 解慕漱(ヘモス)」と名乗る男に誘われて山や一夜を共にしたところ。両親に追放されたというのです。
金蛙王は柳花を連れ帰って幽閉。すると部屋に日光が差し込み柳花が妊娠。卵を産みました。
金蛙王は卵を捨てましたが豚や犬は食べません。割ろうとしても割れないので母親に返しました。
母親が暖めると男児が生まれました。7歳頃になると自分で弓矢を作り射撃するようになります。そこで射撃上手な人という意味で 朱蒙(チュモン)と名付けられました。
兄弟たちに命を狙われる
金蛙(クムワ)王には7人の息子がおり朱蒙と一緒に遊んでいましたが朱蒙には勝てません。長男の帯素(テソ)は王に「朱蒙を排除するよう」に言いましたが王は聞きません。
金蛙王は朱蒙を馬の世話係に任命。朱蒙は良い馬は飼料を減らして痩せさせ、駄馬は餌を与え肥えさせました。王は肥えた馬に乗り、痩せた馬を朱蒙に与えました。
王と朱蒙はその馬に乗って狩りに出て、弓矢で多くの獣を仕留めました。
仲間とともに扶餘を出る
王子や臣下たちは彼を殺そうとしたので朱蒙の母親が朱蒙を逃がしました。朱蒙は友人の烏伊(オイ)、摩離(マリ)、陜父(ヒョッポ)と共に旅に出ました。
彼らは川まで来ましたが橋がなかったので困っていると魚や亀が浮かび上がって橋を作り渡してくれました。
その後、彼らは再思(チェサ)、武骨(ムゴル)、默居(ムッコ)を仲間にしました。
高句麗建国
朱蒙たちは卒本川の土地を本拠地にすると国名を「高句麗」と名付けました。
このとき朱蒙は22歳。漢の孝元帝 建昭2年(紀元前37年)の年でした。
高句麗建国後、周囲の人々は朱蒙に従いました。さらに近くの靺鞨を攻撃。沸流国の松讓(ソンヤン)王も打ち負かして従わせました。その後も、荇人国、北沃沮を滅ぼし占領。領土を広げました。
朱蒙の最後
14年目。柳花が東扶余で亡くなりました。
19年目。王子の類利(ユリ)が母親とともに扶余から逃げてきました。朱蒙王は彼を太子にします。
秋9月。朱蒙王が亡くなりました(享年40歳)。龍山に葬られ「東明聖王」と号されました。
高句麗神話は扶余神話のコピー?
建国者とされる朱蒙が神の子だったり、異常な成長をみせたり、動物に助けられて危機を脱したり事実とは思えない神話的な内容が多いです。
基本的な流れが扶余神話と同じ。そのため歴史学者はこの内容は事実ではなく、扶余神話を借りて創作した話と考えています。
また高句麗の建国神話にはドラマ「朱豪」でヒロインになった召西奴(ソソノ)が登場しません。類利とその母が登場するだけです。
召西奴は百済の建国神話に登場する人物なのです。
「魏書・高句麗伝」とだいたい同じ
三国史記は1145年に高麗で書かれたもの。高句麗滅亡から500年も経っています。
554年に北斉で書かれた「魏書・高句麗伝」にもよく似た話が載っています。高句麗が存在したときからおおよそのストリーはできていたようです。
「三国史記」と「魏書」の違いは以下の通り。
「魏書・高句麗伝」と「三国史記・高句麗本記」の違い
魏書・高句麗伝の特徴は以下の通り。
- 国の名前は「扶余」「扶餘」ではなく「夫余」(漢字が違うだけで意味は同じ)
- 解夫婁・解慕漱・金蛙が登場しない。
- 夫余王に名前がない。
- 河伯の娘に名前がない。
- いきなり夫余王が河伯の娘と出会うところから始まっている(でも河伯の娘が日光で妊娠するところは同じ)。
- 金蛙の王子たち、帯素が登場しない。
- 朱蒙の命を狙うのは夫余の臣下たち。
- 朱蒙と共に夫余を旅立ったのは烏引と烏違の二人。
- 河を渡った後に出会った三人には名前がない。
- 高句麗建国後に靺鞨、沸流国、荇人国、北沃沮を攻めた話がない。
- 柳花夫人が死んだ話がない。
などです。
こまかい部分は違いますが大まかな流れは同じです。
高句麗は668年に滅びました。「魏書・高句麗伝」は高句麗が存在したころに書かれたもの。6世紀ごろには「魏書・高句麗伝」に書かれた内容ができていたのでしょう。
その後、細かい人物名やストーリーは高麗で三国史記が作られるまでに追加されたようです。
一番古い記録は「好太王碑」の鄒牟王
高句麗建国神話で一番古い記録は好太王碑です。
好太王碑は長寿王が414年に作った石碑。父・好太王(広開土王)の功績を称えるためのものです。好太王碑の最初に祖先の鄒牟王のことが書かれています。
それでも朱豪がいたとされる時代から400年はたってます。
鄒牟王(すうむおう=朱蒙)の記録で最も古く、高句麗人が直接書いたもの。後の鄒牟王(朱蒙)伝説の元になったと思われる話です。
朱蒙の本当の名前は鄒牟だった?
高句麗人にとって建国者の名前は「鄒牟」だったようです。
でも魏書では「朱蒙」と書かれています。
どちらも発音は似ていますが「蒙」は知恵が足りない、愚かという意味があります。中国王朝側が侮辱して書いた表現のようですね。
卑弥呼に卑(いやしい)という字を使うのと同じ。外国を侮辱する中国らしいやり方です。
でも魏書を参考にしたと思われる三国史記でも「朱蒙」と書いています。現代の韓国でも漢字表記は「朱蒙」です。
「三国史記」を書いた高麗は中国王朝に服従、中華文明を崇拝する国でした。中国側の主張をそのまま採用しているようです。
現代の韓国では漢字の意味を気にする人はほとんどいないですし。「三国史記」は韓国で最も古い歴史書ですからそのまま使っているようです。
好太王碑の内容
好太王碑から建国者の部分を抜き出して日本語訳するとこうなります。
鄒牟王は北夫餘の出身。父は天帝。母は河伯の娘。卵から産まれた。
あるとき南下して夫余奄利大水の道を通った。王は川岸に立ち「私は皇天(天帝)の子であり、母は河伯の娘であり、わが名は鄒牟王だ。私に橋をください」と言った。亀が応えてすぐに浮橋を提供した。
亀の橋を渡った後。沸流谷に向かい、西に向かって進み、山の上に都を建設した。その後、国を治めた。
やがて黄龍が迎えに来て、忽本の東岡から黄龍に乗って昇天した。
その後、世子の儒留王が後を継いだ。
出典:好太王碑
長寿王の時代にはこの伝説があったようです。このあと夫餘神話の影響が大きくなり。様々に脚色されて三国史記の高句麗建国神話になったと考えられます。
解説
「好太王碑」では王の父は天帝。「三国史記」「魏書」では日光になっています。高貴な女性が日光にあたって妊娠するのは北方民族によくある伝説です。
もともと夫餘の建国神話に「王に仕える侍女が気にあたって妊娠してその子が別の国の王になる」話があります。
夫餘神話は三国志東夷伝に載っています。三国志東夷伝にも高句麗は載っていますが建国神話は書かれていません。高句麗が入手した三国志をもとに創作したのか。高句麗が夫餘の神話を取り入れたと考えられています。
史実としての高句麗の始まりはどうなの?
朱蒙の登場する高句麗建国神話は神話です。実話とは考えられません。
最初は漢の植民地・高句驪県
中国の歴史書によると紀元前107年。前漢は玄菟郡(げんとぐん)を設置。その下に高句驪県をおきました。これが歴史書に登場する高句麗の最初です。高句驪県は東北部の部族を支配するためのものと思われます。
漢から独立して首長は「高句麗侯」になる
紀元前75年。前漢は玄菟郡を廃止して西に移動。新しい玄菟郡を設置。かつての高句驪県にいた部族の君長には「高句麗侯」の爵位を与え。直接支配から冊封による間接支配に切り替えました。
この高句麗侯の支配地域が後の高句麗国になったと考えられます。
時期は不明ですが前漢時代に「高句麗侯」が「高句麗王」に昇格した可能性があります。
また漢から与えられた称号は高句麗侯ですが。部族内部では「王」を名乗っていた可能性もあります。漢から与えられる爵位と自分たちの勢力内で名乗る称号は別だからです。
たぶん最初に高句麗王を名乗った人物が朱豪のモデルになったのでしょう。
朱豪のモデルは漢の支配を抜け出して自治を勝ち取った人物だったのかもしれません。
朱蒙のモデル?高句麗候 騶?
漢書に登場する 高句麗候 騶
中国の歴史書「漢書」には 高句麗候 騶(すう)という人物が登場します。
前漢が高句麗侯(高句麗王)に冊封してしばらくすると前漢の宰相 王莽(おう・もう)が工程になり。「新」を建国。
王莽は非常な異民族嫌いでした。それまで異民族に与えていた「王」の爵位を取り上げ「侯」に格下げ。
このとき高句麗候は 騶(すう)という名前です。東明聖王の名前(鄒牟、朱蒙)に似ています。
新の王莽が高句麗攻撃を命令
王莽は匈奴を征服しようと考え、高句麗に兵を出すよう命令。
でも現地の兵士や民衆は拒否。多くの人々が逃亡して盗賊になりました。遼西大尹(太守)田譚は兵を率いて追撃しましたが、逆に殺されてしまいました。
始建国4年(12年)。王莽は 荘尤(そう・ゆう)に高句麗侯 騶を討つよう命令。
荘尤は軍を率いて騶を誘い出して殺害。その首を首都 常安に送りました。王莽は非常に喜び高句麗の名前を「下句麗」に変更しました。
それ以来、玄菟郡周辺の部族が王莽に反抗。玄菟郡を攻撃するようになりました。
ここに登場する 高句麗候 騶が朱蒙(鄒牟)と考える学者もいます。
それが事実なら朱蒙は王莽に逆らって殺されたことになります。
王莽と戦ったのは瑠璃明王の時代?
高句麗と王莽の戦いは「三国史記」では2代めの瑠璃明王(紀元前19~紀元後18年)の時代だとされています。
時代的にも瑠璃明王の治世と一致します。
瑠璃明王は王莽からの出兵を拒否。王莽が派遣した軍と高句麗が戦い、高句麗軍の将軍が討たれてしまいました。
荘尤は将軍の首を高句麗候 騶だと言って王莽に送ったのでしょうか?
荘尤は出兵前に王莽に高句麗を許すように進言しています。荘尤はむやみに異民族を攻撃する王莽に意見していました。
もしかすると荘尤は高句麗候でないのを知りながら高句麗候と偽って王莽に首を送ったのかもしれません。王莽は辺境の部族長の顔は知りませんから、ごまかせそうです。
朱蒙(チュモン)の物語:神話と歴史の交錯
三国史記に描かれる東明聖王 朱蒙の物語は神話を思わせるような奇想天外なエピソードで彩られています。
卵から生まれ、弓術に長け、数々の試練を乗り越えて高句麗を建国……その壮大な物語は高句麗の人々にとって民族の誇りで国を一つにするための重要な役割を果たしました。
でも歴史学者の間では、この物語の多くは伝説。歴史的事実とは異なるという見方が一般的です。
では歴史的事実としての高句麗の始まりはどのようなものでしょうか?
中国の歴史書によると高句麗は当初は漢の支配下にあった部族連合でした。その後、漢の支配から脱し徐々に勢力を拡大していったと考えられています。
東明聖王 朱蒙はこうした歴史的事実を基に作り出された伝説的な人物の可能性があります。高句麗の建国を象徴する存在として、後世の人々によって作り上げられた英雄なのではないでしょうか。
でも高句麗の人々は東明聖王を建国の祖として崇拝していましたし、実在した祖先と考えていました。肉体をもつ人間として実在したかどうかは問題ではなく「こんな祖先がいた」と信じることが大切だったのです。
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