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朱豪:クムワ王のモデル・金蛙王とは?

c 古代朝鮮半島

韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」に主人公チュモンの養父として出てくるのが夫余(プヨ)のクムワ王。

クムワ王のモデルになったのが東夫余の金蛙王。

韓国では金蛙と書いてクムワと呼びます。

金蛙王は高麗時代に書かれた朝鮮半島の歴史書「三国史記」「三国遺事」に登場する人物。でも金蛙王は伝説上の人物で実在はしないと考えられます。

伝説に残る金蛙王とはいったいどんな人物だったのか紹介します。

 

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金蛙王の史実?

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

名前:金蛙、金蝸

国:東夫餘
地位:太子→王

養父:解夫婁王(かいふる、韓:ヘブル)
父:不明
母:不明
妻:柳花夫人

子供:帯素王、他に王子6任
養子:朱蒙(高句麗王)

三國史記の金蛙の話

金蛙が登場する「三國史記」の高句麗本紀の内容を紹介します。

「三國史記・高句麗本紀」より

 

扶餘の解夫婁王(かいふる、ヘブル)は高齢になっても子供がいなかったため、山川の神に祈願して子供を授かりたいと望みました。

ある日、彼が馬に乗って鯤淵という場所にやって来ると、大きな岩の前で馬が涙を流すのを見ました。王は驚き岩を動かしてみると小さな子供が現れました。その姿は光り輝く蛙(かえる)のようでした。王は喜び「天が授けた後継者だろう!」と考えて子供を保護、金蛙または金蝸(きんか、クムワ)と名付けました。

金蛙が成長し太子になった後。宰相の阿蘭弗が「先日、天のお告げがあり『私の子孫がここで国を建てる。お前たちはこの土地を開けなさい。東の海の近くに迦葉原という土地があるので、そこに国を建てるのだ』と言われました」と報告しました。

王は阿蘭弗の言葉に従い扶餘国の都を迦葉原に移し、国の名前を「東扶餘」にしました。

その後、旧都に天帝の子・解慕漱と名乗る者がやってきてそこを都にして自分の国にしました。

解夫婁王の死後。金蛙が東扶餘の王になりました。

金蛙王が太白山の南にある優渤水で狩りをしていると女性と出会いました。

彼女は「私は河伯(川の神)の娘で名前は柳花です。兄弟と遊んでいたとき一人の男性が現れ、自分を天帝の子だと言って熊心山の下にある部屋に誘いました。そこで私と関係を持ちました。その後、彼は帰ってきませんでした。私の両親は私に仲人がいないのに他の男性に付いていった責めました。それで私は優渤水に追放されました。」と語りました。

金蛙王は彼女に目をつけ連れて帰ると幽閉しました。しかし太陽の光が彼女を照らし、彼女は避けましたが光は追ってきます。光を浴びた彼女は妊娠、一つの卵を産みました。大きさは五升(約1リットル)ほどもありました。

王はそれを捨てて豚や犬に与えましたが食べませんでした。路上に捨てましたが牛馬はそれを避けました。後に野原に捨てると鳥が羽で覆い隠しました。王は割ろうとしましたが割れませんでした。そこで卵を母親に返しました。母親が暖かい場所に置くと殻を破って男児が生まれました。その子は7歳で弓矢を作り百発百中で的を射ることができます。そこで弓矢の名人を意味する「朱蒙」と名付けられました。

金蛙王には他にも7人の子供がいて朱蒙と遊んでいましたが、朱蒙が最も優れていました。

長男の帯素は王に「朱蒙は人ではありません。早く排除すべきです」と進言しましたが、王はこれを受け入れず、代わりに朱蒙に馬を飼育させました。

朱蒙は優れた馬には食事を節約し、普通の馬には飼料を沢山与えて太らせました。王は肥えた馬に乗り、痩せた馬を朱蒙に与えました。その後、王は狩りに出かけました。朱蒙が優れた射手だと知っているので朱蒙に小さな矢を使わせましたが、多くの獣を仕留めました。

しかし王子と宮廷の役人たちは再び朱蒙を排除しようと企み、朱蒙の母親はその陰謀を知って朱蒙に逃げるよう忠告。朱蒙は友人たちと共に逃げました。追跡部隊が派遣されましたが彼を捕まえることはできませんでした。

朱蒙が高句麗を建国した後、柳花が亡くなりました。金蛙王は王妃の格式で葬儀を行いました。

それから間もなく金蛙王が亡くなり、帯素王が後を継ぎました。

 

もともと朱蒙の伝説には金蛙王はいなかった

金蛙王は「三国史記」には登場します。
でも古い時代の高麗建国神話には金蛙王・解慕漱・解夫婁は登場しません。

最も古い高句麗神話には登場しない

高句麗の建国神話で最も古いのは414年に建てられた好太王碑。そこには鄒牟王(朱蒙)の父は天帝、母は河伯の娘と書かれています。

445年に完成した後漢書には高句麗の建国神話は載っていません。このころはまだ中華王朝には伝わってないようです。一方で東明王の登場する夫余の建国神話が載っています。

朱豪神話がほぼ完成、でも金蛙はいない

554年に書かれた「魏書」、636年の「随書」では「朱蒙の母は河伯の娘。河伯の娘は夫余王に幽閉され、太陽の光で妊娠した」と書かれています。

父が天帝なのは省かれています。中華王朝は「天子」は中華の皇帝ただ一人と主張しています。朝貢国が天帝の子を名乗るのは許せません。日本が国書に「日出ずる国の天子」と書いたら隋の皇帝が激怒したのと同じ理由です。

高句麗が報告しなかったか、中華王朝側が削除したかのどちらかでしょう。

高句麗の建国神話は夫余の東明王の神話を借りてきて人物を置き換え若干のエピソードを加えたもの。このころ基本的な部分はほぼできていて夫余王と太陽の光が登場します。

でも金蛙、解慕漱、解夫婁の名前はありません。

 

高句麗滅亡後に金蛙が高句麗神話に登場

高句麗は668年に滅びました。

そして高麗時代の「1145年」に「三国史記」、1200年代後半に「三国遺事」が完成。
ここで金蛙、解慕漱、解夫婁が登場します。

「三国史記」「三国遺事」の高句麗の建国神話には解慕漱、解夫婁、金蛙が登場しますが。
「三国遺事」の北夫余の建国神話には解慕漱、解夫婁は登場するものの、金蛙は登場しません。解夫婁が東夫余に移った後、北夫余で東明帝(朱蒙)が誕生しています。

高麗時代には夫余の東明王が高句麗の東明聖王(朱蒙)に置き換わっていて、夫余の建国者は解慕漱だったことにされています。そうした改ざんされた高句麗建国神話の中に金蛙が登場します。

つまり。

高句麗人は金蛙、解慕漱、解夫婁を知らないか重要とは思ってなかった可能性が高い。
高句麗以外の人が金蛙たちと朱蒙を結びつけた。

ことになります。

解慕漱、解夫婁については百済の貴族で夫余出身の解氏が関わっているという説を紹介しました。

・朱豪の父親・解慕漱(ヘモス)とは?

 

なぜ金蛙が朱蒙の養父になったのかは謎です。

金蛙王は誕生した場面以外はほとんど個人のエピソードがなく。高句麗の建国神話の中で脇役、朱蒙の養父として登場します。

金蛙は高句麗建国神話の夫余王の役を演じているだけで金蛙のオリジナルエピソードはほとんどありません。

 

金蛙王はなぜ金のカエル?

それにしてもなぜ金蛙王は金の蛙(カエル)なのでしょうか?

「金」は黄金以外にも「光り輝く」「高貴な」イメージがあります。

とくに遊牧民や北東アジアの狩猟民では「金」には王権の意味があります。だから新羅の王室は金姓ですし。後の時代ですが女真人の作った国の名は「金」、モンゴルや満州人の王族も黄金の一族を名乗ってます。

でも「蛙」はなぜ?と思うかもしれません。

金蛙は同じ発音の金蝸(かたつむり、にし:巻貝の一種)と書くこともありますが。一般的には金蛙とされます。正しいのは蛙の方でしょう。

蛙は水辺に生きる生き物。神話的には水と関係のある生き物です。水のある所に人の生活の場が生まれ、水は人の生活には欠かせないものです。また蛙は中国では縁起のいい生き物とされているのでその影響もあったでしょう。

金蛙は水神信仰の名残りかもしれません。

金蛙は日本海側の豆満江下流域。現在の北朝鮮と中国・ロシアの国境付近で信じられていたようです。水に近い地域です。

高句麗滅亡後に金蛙が朱蒙の養父になった?

高句麗滅亡後。夫余のあった場所や豆満江流域は唐の支配下になりました。かつて大国の隋や唐と対等に戦った高句麗はこの地域で暮らす人々の誇りになり、王朝に対抗する人々の間でシンボル的な存在になります。

その地域の人々が地元の神だった金蛙を朱蒙に結びつけ。その話が広がり、高麗時代に編纂された高句麗建国神話に入り込んだのかもしれません。

真相は闇の中ですがそんな可能性があるのではと思います。

 

ドラマ

朱豪 演:チョン・グァンリョル 役名:クムワ

 

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