東明聖王は高句麗の建国者とされる伝説上の人物。
「三国史記」では東明聖王の名前は朱蒙とされます。
東明聖王 高朱蒙は歴史書に登場します。でも伝説化して詳しいことは分かりません。
日本はもちろん韓国でも一般にはあまり知られていない人物でしたが、韓国ドラマ「朱蒙」のヒットにより朱蒙(チュモン)の名前で知られるようになりました。
東明聖王 朱蒙は高句麗を建国したということ以外はほとんど何も分かっていません。謎の多い人物です。
そこで昔の書物にはどう描かれているのか紹介します。
チュモン(朱蒙)の史実
どんな人?
名前:朱蒙(しゅもう、チュモン)
他にも 鄒牟、衆解、中牟、仲牟 の書き方がありますが。もとの発音は同じと思われます。
生年月日:紀元前58年
没年月日:紀元前19年9月
彼は高句麗の建国者とされる人物です。
日本では弥生時代の人になります。
家族
母:柳花夫人(りゅうかふじん、ユファ)
妻:禮氏夫人(れいしふじん)
召西奴(しょうせいぬ、ソソノ)
子供:沸流王、温祚王
瑠璃明王
チュモンの家系図
テレビドラマ・チュモンの家系・相関図を紹介します。
この家系図はドラマの相関をもとに作成したものです。歴史的な事実とは一致しません。
名前
高句麗の建国者=東明聖王の名前は文献によって違います。
- 朱蒙(しゅもう):「三国史記・高句麗本記」「三国遺事」「魏書」
- 鄒牟(すうむ):「好太王碑」
- 中牟王(ちゅうむおう):「三国史記・新羅本紀」
- 仲牟王(ちゅうむおう):「日本書紀・天智天皇紀」
と書かれます。だいたい発音は似ていますね。
一般的には三国史記・高句麗本記の表記を優先して「朱蒙(しゅもう)」とされます。現代韓国語では「チュモン」と発音しますが、高句麗人が何と発音していたのかは不明です。
一番古いのは「好太王碑」の「鄒牟」。これが本来の名前に一番近いと思います。
姓は「三国史記」では本来の姓は「解」でしたが、高句麗建国後に「高」に変えたとあります。
三国史記に描かれる東明聖王の生涯
東明聖王はいくつかの史書に登場しますが伝説化して詳しいことは分かりません。
一番よく知られているのが三国史記・高句麗本記の内容です。
三国史記は1145年に高麗で書かれました。
三国史記・高句麗本記で朱蒙に書かれた部分をまとめるとこうなります。
扶餘 解夫婁王の時代
始祖 東明聖王は高氏、諱は朱蒙。
扶餘王 解夫婁(ヘブル)には子がいなかったので神に祈りました。すると王が乗っていた馬が鯤淵に来たところで大きな石を見つけ涙を流しました。王が石を調べさせると金色の蛙の形をした小さな子供がいましす。
王は喜び「これは天から授かった私の子だ!」と言って、その子を「金蛙(クムワ)」と名付けて育てました。
その後、宰相の阿蘭弗が「天からお告げがありましたその内容は『我が子孫がここに国を建てる。あなたはよそに行け。東の海の浜に迦葉原という豊かな地がある。そこに都を置け』と言いったのです」というので。解夫婁王は都をそこに移し、国号を「東扶餘」としました。
元の都には自称「天帝の子・解慕漱(ヘモス)」と名乗る者がやってきて国を作りました。
扶餘 金蛙王の時代
解夫婁が亡くなると金蛙が跡を継ぎました。
あるとき金蛙王は太白山の南の優渤水で女性と出会いました。
彼女は
と答えました。
金蛙は柳花を連れて帰って幽閉しました。ところが部屋に日光が差し込みます。柳花が光を避けようとしますが光も追って来ます。その結果、柳花は妊娠して5升(約1000ml)程度の大きさの卵を産みました。
王は卵を捨てて豚や犬に与えましたが食べませんでした。道に捨てましたが牛馬は避けました。野原に捨てると鳥が羽で覆い隠しました。王は割ろうとしましたが割れませんでしたので母親の元へ返しました。
母親は物で包み暖かい場所に置くと男児が生まれました。立派な骨格の子供でした。7歳頃になると異常なほど成長して自分で弓矢を作り始め射撃するようになります。そこで射撃上手な人という意味で 朱蒙(チュモン)と名付けられました。
兄弟たちに命を狙われる
金蛙王には7人の息子がおり朱蒙と一緒に遊んでいましたが朱蒙には及びませんでした。
長男の帯素(テソ)は王に
と言いました。
でも王は聞き入れず、彼を馬の世話係に任命しました。朱蒙は馬の良し悪しを見分け、良い馬には飼料を減らして痩せさせ、駄馬は餌を与え肥えさせました。王は肥えた馬に乗り、痩せた馬を朱蒙に与えました。
王は狩りに出かけました。朱蒙は優れた射手なので小さな矢でも多くの獣を殺しました。
仲間とともに扶餘を出る
王子や臣下たちは彼を殺そうとしました。
朱蒙の母親がそれを知り朱蒙に逃げるように言いました。そこで朱蒙は烏伊(オイ)、摩離(マリ)、陜父(ヒョッポ)という3人の友人と共に旅に出ました。
彼らは淹淲水まで行きましたが橋がなく追手に追われていたため
と河に向かってに言いいました。すると魚や亀が浮かび上がって橋を作り、朱蒙たちは渡ることができました。
その後、彼らは毛屯谷まで行き3人の男に出会いました。それぞれ、再思(チェサ)、武骨(ムゴル)、默居(ムッコ)という名前です。朱蒙は再思に「克」、武骨に「仲室」、默居に「少室」という姓を与え。仲間にします。
高句麗建国
朱蒙たちは卒本川まで来ました。そこは土が豊かで山々が険しく守りやすい土地なのでそこに国を建設することに決めました。
しかし宮殿や建物などは作らず、沸流水上に小屋を建てて住んでいました。国号は「高句麗」と名付けられ、氏族名は高氏としました。
このとき朱蒙は22歳。漢の孝元帝 建昭2年(紀元前37年)の年でした。
高句麗建国後
高句麗建国後、周囲の人々は朱蒙に従いました。
朱蒙の土地は靺鞨の近くにあったので、靺鞨を攻撃。靺鞨は恐れをなして攻撃してすることはありませんでした。
沸流国を支配下にする
ある時、朱蒙王は沸流川に菜の葉が流れているのを見て上流に人がいるのを知りました。そこで沸流国に到着。その国の松讓(ソンヤン)王は朱蒙王を出迎え「どこから来たのか?」と聞きました。
朱蒙王は
と答えました。すると松讓王は「あなたは都を立てたばかりだ、私の属国になれ」というので朱蒙王は怒り議論し、射撃の技量を競いました。松讓は負けました。
2年目。沸流の松讓が降伏。松讓をその土地の主にしました。
4年目。城壁と宮殿を建設。
6年目。仏伊・扶芬奴に大白山の東南にある荇人国を攻めさせて占領しました。
11年目。扶尉猒に北沃沮を攻めさせ滅ぼしその土地を占領しました。
14年目。柳花が東扶余で亡くなりました。金蛙王は太后の格式で葬り神廟を建てました。朱蒙王は使者を扶余に送りました。
19年目。王子の類利(ユリ)が母親とともに扶余から逃げてきました。朱蒙王は喜び彼を太子に立てました。
秋9月。朱蒙王が亡くなりました(享年40歳)。龍山に葬られ「東明聖王」と号されました。
神話的な内容の建国物語
以上が1145年に高麗で書かえた三国史記・高句麗本記にある内容です。
建国者とされる朱蒙が神の子だったり、異常な成長をみせたり、動物に助けられて危機を脱したり事実とは思えない神話的な内容が多いです。また基本的な流れが扶余神話と同じです。そのため歴史学者はこの内容は事実ではなく、扶余神話を借りて創作した話と考えています。
ソソノはいない
また高句麗の建国神話にはドラマ「朱豪」でヒロインになった召西奴が登場しません。類利とその母が登場するだけです。召西奴は百済の建国神話に登場する人物なのです。
まとめ:朱蒙(チュモン)とは?
神話と歴史の狭間で
朱蒙(チュモン)は高句麗の建国者として語り継がれてきました。でも歴史的な裏付けは必ずしも明らかではありません。三国史記に記された内容は後の時代に創作された可能性も指摘されており、歴史学者からは神話的な要素が強いと言われています。
多様な呼び名と出自
東明聖王は様々な呼び名で呼ばれており、その出自についても複数の説が存在します。これは高句麗の歴史が長い年月をかけて作られ、その途中で様々な伝説が加わったことを意味しています。
テレビドラマ「チュモン」の影響
近年では韓国ドラマ「チュモン」が大ヒット。チュモンの名は広く知られるようになりました。このドラマは史実をモデルにはしていますが。大部分がドラマ独自の解釈で作られています。でも歴史ファンだけでなく一般の人々にも高句麗の歴史に興味を持たせるきっかけとなりました。
東明聖王 朱蒙(チュモン)は、高句麗建国の神話に登場する英雄です。でも歴史的な人物としての東明聖王像はまだ謎に包まれています。今後の研究によってその実像が明らかになるのを期待しましょう。
ドラマの設定だけでなく、様々な歴史の文献からわかる史実としての高句麗の建国者・東明聖王についてはこちらの記事も御覧ください。
テレビドラマ
朱蒙(チュモン) 2006年、MBC 演:ソン・イルグク
「三国史記」や偽書の内容をもとにした100%作り話。ドラマとしては面白く大ヒットしました。
百済の王 クンチョゴワン 2010年、KBS 演:イ・ドクファ
1話のみの登場。召西奴と喧嘩別れする場面が描かれます。
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