中国ドラマを見ていると大理寺(だいりじ)という言葉が出てきます。
「寺」とつくので仏教関係の施設のように思うかもしれません。でもそうではありません。
大理寺には役人たちがいて牢獄のようなものがあって、人物が囚われたり拷問を受けています。
大理寺(だいりじ)は朝廷の管理下にある役所です。
仏教とは関係ありません。
仏教と関係ないのになぜ「寺」なのでしょうか?
それは古代中国では「寺」は仏教施設を意味する言葉ではなかったからです。
「寺」が仏教と関係ないとはいったいどういうことでしょうか?
それならなぜ「寺」が仏教の施設を意味する言葉になってしまったのでしょうか?
大理寺と仏教の不思議について紹介します。
大理寺(だいりじ)とは
大理寺(だいりじ)は古代中国王朝時代の役所。九つある役所(九寺)のひとつです。
大理寺は司法と刑罰を担当します。牢獄を管理するのも大理寺です。
今でいうと裁判所、刑の執行、刑務所をあわせた組織です。
秦漢の時代には廷尉と呼ばれていました。一時的に「大理」に変わったことがありましたが。皇帝が変わるともとに戻りました。
6世紀の北斉の時代に正式に「大理寺」に名前が変わりました。隋・唐・宋はその名前を引き継ぎました。
元の時代には大理寺という名前はありません。
明・清の時代に大理寺の名前は復活。でも唐宋の時代とは役目は違います。
唐・宋の時代は大理寺が裁判。刑部が調査を行っていました。
明・清の時代は大理寺が調査。刑部が裁判を行っていました。役目が入れ替わってしまったのです。元の前と後では人も違いますし様々な制度が変わっています。
役所なのになぜ「寺」なの?
ここで疑問に思うのはなぜ役所を「寺」と呼んでいるのかですよね。
実は古代の漢字の意味では「寺」は「廷」とほぼ同じ意味でした。「廷」とは人のいる場所・建物のこと。寺は皇帝に仕え「法」に従って仕事をする人達がいる場所です。つまり「寺」は「役所」でした。
だから古代中国には「九寺」といって9つの部署がありました。「大理寺」もそのひとつです。
寺が仏教施設になったわけ
では役所を意味する「寺」がなぜ仏教施設の意味になったかというと。
漢字に仏教施設を意味する文字がなかったから。
中国で最初に仏像が置かれたのは「鴻臚寺」という場所でした。
後漢の明帝(在位 西暦57~75年)の時代。
インドから迦葉摩騰(かしょうまとう、梵語:カーシャパマータンガ)と竺法蘭(じくほうらん:ダルマラクシャ)という2人のインド人僧侶がやってきました。
一説によれば明帝が夢で金人(金色に輝く人)の夢を見ました。その話を人々に話したところ、それは「仏」だとわかり。蔡愔たち十数人の使者を西域に派遣。仏法を後漢に導入しようとしました。
蔡愔たちは西域の大月氏(今のタジキスタンからウズベキスタンあたり。当時はクシャーナ朝の領土)で迦葉摩騰に出会い、蔡愔は迦葉摩騰と竺法蘭を連れて漢にやってきたといいます。
伝承では明帝は夢で仏教を知ったことになっています。実際にどうやって明帝が仏教の存在を知ったのかはわかりません。明帝に金人が仏だと言ったのは誰かはわかりませんが、少なくとも当時の後漢には仏教を知っている人がいたことになります。
シルクロードを通ってやってくる西域の人の中には仏教を信じている人もいたでしょう。たまたまやって来た外国の使節から仏教のことを聞いたのかもしれません。
とにかく迦葉摩騰は白馬に乗って後漢にやってきました。迦葉摩騰はまずは「鴻臚寺」に案内されました。「鴻臚寺」は外国の使節を出迎える役所です。
迦葉摩騰は仏像と経典を持ってきました。中国で最初に仏像と経典を置いた場所が「鴻臚寺」でした。
中国最初の寺院「白馬寺」
明帝は迦葉摩騰を歓迎。洛陽に迦葉摩騰が暮らすための施設を作りました。その使節には「白馬寺」と名付けました。迦葉摩騰が白い馬に乗ってやって来たからです。
「白馬寺」は皇帝の命令で建てられた朝廷の施設です。朝廷の施設なので「寺」なのです。
それ以来、「白馬寺」は僧侶が生活して経典の内容を人々に教える場所になりました。時が流れて中国人僧侶が「白馬寺」で暮らすようになり、仏教を広める場所になりました。
漢の時代、宗教施設といえば「廟」です。「廟」は祖先の魂を祀る場所です。仏教が中国に来る前。すでに儒教が広まっていて祖先の魂を祀る「廟」があちらこちらにありました。でも仏は中国人の祖先の魂ではありませんので、仏教施設を「廟」とはいいませんでした。
でも漢の時代は明帝のように仏教に興味をもつ皇帝はいましたが。仏教は広まりませんでした。
仏教の広まりとともに「寺」が仏教施設に
中国で仏教が広まり発展したのは北魏~隋・唐の時代。遊牧民出身の皇帝達は仏教という新しい教えを使って自分の権威を高めようとしました。それらの王朝では仏教は国が管理しました。
朝廷は僧侶を管理するための役人を任命。彼らは僧侶の中から選ばれました。僧侶は朝廷の組織の一部に組み込まれ。役人と立場が同じになったのです。役人のいる場所は「寺」ですから。国が任命した僧侶のいる場所も「寺」です。仏教は国家が管理、僧院は国の管理下におかれ朝廷の組織の一部になりました。
唐の時代。朝廷は「提舍寺」を建設。提舍とは四方から人々が集まるという意味のインドの言葉を漢字にしたもの。僧侶が集まって修行する場所を提舍寺と名付けました。これも朝廷の施設です。
その後、「提舍寺」が省略され「寺」というと僧侶の集まる場所になりました。
それまでは仏教施設を「精舍:ヴィハーラ(寺院)」「阿蘭若:アラナ(森林、清らかな場所)」「伽藍(僧伽藍摩:サンガラーマの省略型、僧侶が集まる場所)」、「庵」など様々な言葉で呼んでいました。仏教の宗教施設としての呼び方はとくに決まってなかったのです。
ちなみに奈良にある「唐招提寺」も唐の「提舍寺」から名付けられています。唐から来た僧侶がいる場所という意味です。
神仏を祀る場所としての寺廟
やがて仏を祀る場所を「寺廟」ともいうようになりました。中国人にとって仏教が神秘的なものに思えたので霊を祀る「廟」と似たようなものだと考えるようになりました。
「廟」は儒教では祖先の魂を祀る場所ですが。中国では後漢から南北朝時代に三教合流が進み仏教、儒教、道教の考え方が混ざるようになりました。中国版の神仏習合です。
神や仏など超自然的な存在を祀る場所も「廟」と呼ばれ。仏を祀る場所を「寺廟」と呼ぶこともあります。
本来、「寺」と「廟」は全く違う意味でした。でも「寺」と「廟」が合体。「寺廟」となりました。日本では「寺廟」とは言いませんが。中国ではそういう表現もあります。
役所から寺の文字がなくなる
こうして仏教の広まりとともに「寺」が仏教施設を意味する言葉として使われるようになりました。
そうなると逆に役所に「寺」の文字が使いにくくなり。「大理寺」など古代からある名前を除いて新しくできた役所に寺という文字は使わなくなりました。
清朝は後半になると「大理寺」を「大里院」に変えたので役所から「寺」の文字はなくなります。中国でも寺=仏教施設が当たり前になりました。
日本は最初から「寺=仏教施設」として輸入しました。そのため日本ではなんの迷いもなく「寺=仏教施設・宗教施設」と言えるのです。
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