蕭承礼(しょう・しょうれい)は中国ドラマ「長安賢后伝」の登場人物。
ドラマの蕭承礼は四大親王の筆頭。盛州王の息子の中では最年長ですが、大人しく争いは好みません。
蕭承礼のモデルになったのは後金の王族・ダイシャン。
ダイシャンはヌルハチの次男。ホンタイジやドルゴンの異母兄です。
清朝の人物がモデルになってるのは「長安賢后伝」が「孝荘秘史」のリメイク作品だから。
「孝荘秘史」は後金から清朝の時代が舞台です。「長安賢后伝」は「孝荘秘史」の設定を唐の雰囲気がする中華王朝に置き換えたドラマなのです。
長安賢后伝に登場する蕭承礼のモデルになったダイシャンとはどのような人物だったのか紹介します。
ドラマ「長安賢后伝」の蕭承礼(しょう・しょうれい)とは
蕭承礼(しょう・しょうれい)
演:何中華(ホー・チョンホア)
蕭尚遠の第二王子→鄭王
四大親王のひとり。
蕭尚遠の息子の中では最年長ですが争いや政治にはやや消極的。わりと他の三人の意見に流されやすい。
母の死の真相を知った蕭承煦は、蕭承睿を皇帝の座から追い落とすために蕭承礼を仲間にしようとしました。
蕭承睿と蕭承煦の間にたたされ微妙な立ち位置になってしまい。
最後は病死します。
蕭承礼のモデルダイシャンとは
名前:ダイシャン(代善)
姓:アイシンギョロ(愛新覚羅)
生年:1583年8月19日
父は清太祖 ヌルハチ(努爾哈赤)
母は元妃 トゥンギャ(佟佳)氏。
ダイシャンはヌルハチの次男です。
天命元年(1616年)。ヌルハチが後金が建国。ダイシャンは「和碩貝勒」の称号を与えられました。通称は「大ベイレ」。満州八旗のひとつ「正紅旗」の旗主(司令官)になりました。
ヌルハチの女真統一。モンゴルや明との戦いでは先頭に立って戦い。大きな功績をあげました。
ヌルハチは長男(ダイシャンにとっては同母兄)のチュイエンを後継者にしようと考え、自分の権限を分け与えました。ところがチュイエンは王のように振る舞い横暴になっていきました。そのため兄弟や臣下から反発を受けてチュイエンは軟禁されました。
その後、ヌルハチは次男のダイシャンを後継者にしようと考えました。
ところが。ヌルハチの小福普(側室)テインチャが「大福普(正妻)がダイシャンと不適切な関係にあります」とヌルハチに訴えました。
このときの「大福普」はアバハイ(4番めの正妻、ドルゴンの母)がグンダイ(2番めの正妻、マングルタイの母)と言われますが、アバハイが有力です。
大福普は夜になると着飾ってダイシャンのテントに通いました。ダイシャンが宴を開くときは大福普も出席、ベイレ(諸王)や大臣たちをもてなしました。
それを聞いたヌルハチは怒って大福普を罰しました。
ダイシャンには直接罰はありませんでしたが、ダイシャンはヌルハチの後継者としての地位を失います。
遊牧民社会には王が死ぬと妻や側室は次の王が養うという習慣がありました。そこでヌルハチと親子ほど歳が離れている大福普アバハイはヌルハチの死後を考え有力な後継者とされているダイシャンとの関係を深めようとしたようです。
以後。ダイシャンはアバハイとは付き合わなくなります。
信用を失い後継者争いでは不利な立場になりましたが。それでもダイシャンがヌルハチの王子の中で最年長。2つの旗を持つ有力王族なのは変わりません。
ヌルハチは4大ベイレ(ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ)を任命。彼らにハン(国王)の政治を補佐させました。
1626年。ヌルハチが死去。四大ベイレはヌルハチの遺言に従い大福普アバハイの殉死を伝え。アバハイの息子(アジゲ、ドルゴン、ドド)の保護を約束しました。
次にベイレ(王族)たちの間で次のハン(国王)を決める会議が開かれました。有力候補はダイシャン、ホンタイジ。
ここでダイシャンの長男ヨトと三男サハリャンがホンタイジを支持してしまいます。ダイシャンはかつてアバハイとの関係が問題になったとき、噂を広めたのはヨトとサハリャンだと決めつけて罰した事がありました。またダイシャンはヨトに自分のあとを継がせないと決めていたのでヨトは不満でした。
もともとアバハイの件で評判を落としていたダイシャンは息子たちに説得されてハンになるのを諦め。次のハンはホンタイジに決まりました。
崇德元年(1636年)。ホンタイジが後金の2代目ハンになりました。
でもヌルハチ亡き後の後金で力をもっていたのはハンではなく四大ベイレです。ダイシャンは四大ベイレの筆頭として影響力を持ち続けました。儀式のときに臣下と向き合って座るのはハンだけではなく四大ベイレでした。
その後の。明、朝鮮、モンゴルとの戦いでは四大ベイレの主導で行われました。
でもホンタイジはそれが不満でした。ハンに権力を集めようとします。口実をみつけてはアミン、マングルタイを処罰して力を奪っていきました。
1635年(天聡9年)。ダイシャンは個人的に宴会を開き、ホンタイジと敵対するハダ公主(マングジ、ヌルハチの三女、マングルタイの同母妹、ホンタイジの異母姉)に褒美を与えました。
ホンタイジは王族会議を招集。日頃からハンを敬う態度をみせずホンタイジの命令に従わない。不正に蓄財している。部下への賞罰が不公平。配下の者を虐待している。などの理由でダイシャンを批判。ダイシャンは大ベイレの地位を奪われました。こうして四大ベイレはホンタイジを除いてすべて失脚。ホンタイジが力を持ちます。
その後。ダイシャンは大人しくホンタイジに従うようになりました。
「後金」が「大清」に名前を変え。ホンタイジが皇帝(ハーン)になりました。
1643年(崇徳8年)。ホンタイジが死去。
皇帝選びの会議を主催
ホンタイジは生前に後継者を決めてなかったので王族会議で後継者を決めることになりました。
ダイシャンは王室の年長者なので会議を主催しました。
このとき候補になったのはホンタイジの長男ホーゲとドルゴンでした。お互いの派閥が激しく主張して会議はまとまりそうにありませんでした。
そこでジルガラン(ドルゴンの説もあります)がホンタイジの息子フリンを皇帝に提案。賛成を得てフリンが皇帝に、ジルガランとドルゴンが摂政になることも決まりました。
この後。ダイシャンの次男ショトと孫アダリは会議に不満でドルゴンを担いで皇帝にしようとしました。ダイシャンにも賛成するように迫りました。ダイシャンはこのことを王族に暴露。ショトとアダリは処刑になりました。
ダイシャンは身内の謀反を暴露したので周囲から公正な人物だと称賛されましたが。自分の息子と孫が犠牲になってしまいました。
その後、病気がちなダイシャンは家で余生を暮らしました。
順治4年(1644年)。清が北京に遷都するとダイシャンも北京に移り住みました。
順治5年10月11日(1648年11月25日)。ダイシャンは北京の自宅で死去しました。享年65。
コメント