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伝国の玉璽とは

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中華王朝には 伝国の玉璽(でんこくのぎょくじ)というアイテムがあります。

「伝国玉璽」「伝国璽(でんこくじ)」ともいいます。

どの王朝にも王権のシンボルになるアイテムはありますけれど中華王朝の場合は「伝国璽」なのです。

玉璽は始皇帝が始めました。その後も漢や他の王朝にも引き継がれます。本物は途中で失われましたが。「伝国璽」とされるものはどの王朝にもありました。

そして「伝国璽」が国の運命に大きく関わったできごともあります。

後金の2代ハン(王)ホンタイジはモンゴルから玉璽をうけとり。皇帝(ハーン)になりました。

 

中華王朝にとって重要アイテムだった「伝国玉璽」について紹介します。

 

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玉璽の歴史

始皇帝よりも前は玉璽ではなかった

始皇帝より前の時代。中原の周という国には「九鼎」という天子(君主)のシンボルがありました。鼎(てい・かなえ)とは儀式に使う釜のことです。

秦が周を滅ぼした時。秦軍は九鼎を持ち帰ろうとしました。ところが輸送中に川に落として無くしてしまいます。

始皇帝が玉璽を皇帝のシンボルにした

紀元前221年。秦の始皇は中華統一後。失われた九鼎の代わりに和氏の璧という美しい石(一節には藍田の玉)を入手して印(印鑑・ハンコ)を作らせました。

始皇帝以前。世間では金持ちや貴族が金や玉(ぎょく=高価な石)で印を作ることがありました。でも始皇帝は人々が金や玉で印を作るのを禁止。皇帝だけが金や玉で印を作れるようにしました。

この皇帝の印を「璽(じ)」と呼び。玉(ぎょく)で作った璽なので「玉璽(ぎょくじ)」といいます。「玉璽」は「天子璽」ともいいます。

それ以降、玉璽は皇帝のシンボルになりました。

漢は秦の玉璽を引き継いで正しい皇帝になった

秦の最後の皇帝・子嬰(しえい)は反乱を起こした劉邦に攻められて降伏。玉璽を渡しました。

劉邦は皇帝に即位「漢」を建国。秦の玉璽は漢にも受け継がれます。劉邦は皇族でも貴族でもなく下級の役人です。武力で皇帝の座を奪ったら強盗と同じです(歴史用語では簒奪(さんだつ)といいます)。

前の王朝の皇帝から玉璽をもらったらから皇帝になれた」というのは劉邦に正当性を与える大きな武器になりました。ただ単に物としてのハンコをもらったのではありません。「皇帝の権威・正当性」をもらったことになるのです。

玉璽は漢でも皇帝のシンボルになりました。

以後「玉璽を持つ者が皇帝」と信じられるようになります。こうして「伝国の玉璽」の伝説が始まります。

王莽が「新」を建国した時。王莽は漢の孝元皇太后に「玉璽を渡せ」と要求しました。怒った孝元皇太后が玉璽を投げつけたので玉璽が欠けた。という逸話があります。

新が滅びて後漢が建国した後。玉璽は更始帝 劉玄の物になり。更始帝が赤眉軍に負けた後、玉璽は赤眉軍の劉盆子の物になり。赤眉軍が壊滅後。玉璽は後漢の建国者 光武帝 劉秀の物になりました。後漢でも玉璽は皇帝のシンボルになりました。

三国志の時代に混乱

後漢の末期。世の中が乱れると玉璽の行方も曖昧になります。そのへんの経緯は「三国志」に描かれています。

どこまで本当かわかりませんが。漢の玉璽はその後は魏・普と伝わり南北朝時代を経て隋・唐へと伝わったと言われます。

唐が滅亡すると伝国の玉璽は行方不明になりました。

その後の王朝はそれぞれに過去の記録をもとに玉璽を作って「伝国の玉璽」にしました。

明の永楽帝も伝国玉璽を探した

元の末期。朱元璋が明を建国。元を中原から追い出しました。そのとき元の玉璽は行方不明になりました。明の永楽帝は何度もモンゴルに遠征をしました。遠征の理由のひとつが元がもっていた「伝国玉璽」を手に入れることです。

漢の時代以降は「革命思想」が広まり。「徳のある者が天から選ばれて天子(地上の支配者、皇帝)になる」ことになっていました。だから王権を正当化するアイテムは必要ないはずです。でも理屈はそうでも権力を正当化する権威はほしいです。反乱を起こして手にした権力ならなおさらです。

歴代の皇帝は「伝国玉璽」が発見されることが「天命の証」と考え。王朝ができるたびに偽物の「伝国玉璽」が作られました。

明の永楽帝は元を超える国を作るのが夢でした。そのために何度もモンゴルに遠征。元が持っている玉璽を手に入れようとしました。

結局、永楽帝は「伝国玉璽」を手に入れることができず明で作った玉璽を「伝国玉璽」にしました。

ホンタイジが「伝国玉璽」を手に入れ皇帝(ハーン)を名のる

後金の2代目ハン(王)ホンタイジはモンゴル・チャハル部を降伏させたときに「伝国の玉璽」を手に入れたと言われます。

モンゴル(大元)の第40代ハーン(皇帝)リンダン・ハーンはチベット遠征中に病死。リンダン・ハーンがいない間に後金軍はモンゴルを攻めて首都フヘ・ホトを占領。リンダン・ハーンの息子エジェイとリンダン・ハーンの皇后(ハトン)ナムジョンは後金軍に投降しました。このときナムジョンは大元皇帝の玉璽「制誥之宝」をホンタイジに差し出しました。

ホンタイジはこれを「伝国玉璽」と考え。ハーンの地位がモンゴルから自分に渡ったことにしました。そして皇帝(ハーン)を名乗り、国名を「大清」に変えました。それまで後金のハンは満洲人を支配する王でした。でもホンタイジは満洲人・モンゴル人・漢人を支配する皇帝(ハーン)になったのです。

中華の皇帝になるだけなら「徳があるので天から選ばれた」ことにして玉璽を作ればいいです。

でも遊牧民の世界ではハーン(遊牧民社会の皇帝)になれるのはチンギス・ハーンの男系の子孫だけという掟がありました。オイラトのエセンは強い権力を持っていましたが勝手に「ハーン」を名乗ったので遊牧民の支持を失い滅ぼされました。

でもホンタイジはモンゴル帝国の後継者=ハーンになりたかったのです。ホンタイジの母方イェヘナラ氏はモンゴル出身。「ホンタイジ」の名前もモンゴル語で高貴な人を意味する称号(元は漢語の「皇太子」ですがモンゴルに伝わって「王の次に偉い人」から貴族の称号へと変化した)から来ています。ホンタイジや当時の女真人(満洲人)はモンゴルの文化に慣れ親しんでいました。

それに人口の少ない満洲人だけでは中華世界を支配できません。ぜひともモンゴルの協力が必要という事情もあります。だからホンタイジは中華の「皇帝」だけではなく、「ハーン」にこだわりました。

でもアイシンギョロ(愛新覚羅)家はチンギス・ハーンの子孫ではありません。そこでモンゴル王族から地位を譲ってもらう必要があったのです。モンゴルの玉璽を手に入れ、ホルチンやチャハルの王族から「ハーンになって欲しい」とお願いされる儀式を行ってハーンに即位しました。

血筋ではなく「お願いされた形をとって即位する」のは中華的な発想ですが。後金はモンゴルと明の両方の影響を受けているのでこのような折衷案がでてくるのでしょう。

 

「伝国玉璽」は必要ない、乾隆帝が新しい玉璽を作る

清朝玉璽

乾隆帝の玉璽

 

ホンタイジが手に入れた玉璽は「伝国玉璽」と信じられていました。

「伝国玉璽」は皇帝の権威を象徴する「宝」なので日常の業務には使いません。皇帝が書類に印を押すときは専用の玉璽があります。

6代皇帝 乾隆帝は皇帝の座をひきついだとき「伝国玉璽」を調べ。「伝国玉璽というなら秦の玉璽でなければ意味がない」と考えました。

大清が北京にやってきて100年近く。乾隆帝はすっかり中華の文化に染まっていました。ホンタイジほどモンゴル帝国に思い入れはありません。乾隆帝はホンタイジから受け継いだ「伝国玉璽」は「本物の伝国玉璽ではない」と判断しました。

でも祖先が受け継いできたので国の宝として大事に保管しました。

かわりに新しい玉璽を作って大清帝国の玉璽にしました。

すでに清は明の領土より大きくなっていて衰える気配はありません。乾隆帝は国の統治には伝説は必要ないと考えました。

「大清帝国の皇帝は天に認められた存在である」という自信があったので、伝説の「伝国玉璽」を必要としなくなったのです。

 

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