東城王は百済の24代国王です。
百済は高句麗に敗れたあと、熊津を新しい都にして国を立て直そうとしました。しかし百済では権力を巡る内部争いが続いていました。そんなときに王になって衰退していた百済を立て直そうとした王です。勇敢で弓矢が得意だったともいいます。
また新羅と協力して高句麗に対抗しようとしました。しかし晩年は贅沢がひどくなり家臣に暗殺されてしまいます。
史実の東城王はどんな人物だったのか紹介します。
東城王(トンソン王)の史実
どんな人?
姓:扶餘(ぷよ)
名前:
三国史記では牟大(モデ)、摩帝
日本書紀では末多(また)
生年月日:不明、445年?
没年月日:501年
在位:479~501年。
百済の24代国王。
日本では古墳時代。国内では倭(やまと)、対外的には倭(ワ)と呼ばれていました。雄略天皇~武烈天皇の時代になります。
家族
子:宝果公主
妻:不明(倭人?)
東城王の家系図
おいたち:倭に人質として向かう
父親は扶餘昆支。日本では昆支王(こんきおう)として知られる人物。
455年。牟大(東城王)は百済王族・昆支の次男として産まれました。
461年。21代蓋鹵王(ケロワン、がいろおう)の時代。昆支は蓋鹵王の命令で倭(やまと=日本)に人質として派遣されます。このときすでに昆支には5人の子供がいましたが、子供も一緒に倭に行きました。
昆支王は河内の開拓を行いました。昆支の子の中では牟大が一番頭がよかったといいます。牟大も父とともに開拓を手伝っていたのかもしれません。
百済の一時滅亡
475年。百済は高句麗の長寿王による侵攻を受け漢城が陥落、蓋鹵王が死亡しました。百済は大きな打撃を受けます。
蓋鹵王の息子・文周王(ムンジュワン、ぶんしゅうおう)が即位。熊津(忠清南道公州市)を新しい都にしました。父・昆支王は急遽帰国。佐平(大臣)となって文周王を補佐しますが間もなく世を去ります。
百済の混乱
477年。文周王が解氏に暗殺されます。文周王の息子・三斤王(サングンワン、さんきおう)が解仇にかつがれ即位しました。
ところが三斤王も急死。解仇の反乱で命を落としたと考えられます。その解仇も真氏勢力によって鎮圧されました。
東城王の時代
百済の王になる
こうした百済の混乱をうけて雄略天皇は昆支の息子を百済に返すことにしました。兄弟の中で一番聡明だった牟大(モデ)が選ばれ百済に帰国。
480年。牟大が即位しました。24代東城王の誕生です。このころ15歳(数え年)だったといいます。
東城王は解仇の鎮圧に功績のあった真老を抜擢、兵を動かす兵官佐平の地位を与えます。また熊津に古くからいる燕氏、沙氏を要職につけました。
高句麗との対立と南斉への朝貢
高句麗が南斉に朝貢して高い地位を得たことを受け、東城王も南斉に使者を派遣しました。しかし南斉から与えられた位は高句麗よりも低いものでした。
新羅との同盟強化
東城王は高句麗に対抗するため新羅との関係強化に力を入れました。
- 使節の派遣と王族の婚姻: 新羅との同盟を結ぶため東城王は使者を派遣。493年には新羅から王族の娘が嫁いでくるなど両国の関係は緊密になりました。
- 高句麗との戦いと援軍: 494年に高句麗と新羅の戦いが始まると東城王は新羅に援軍を送り、495年には高句麗の侵攻を撃退するなど、軍事的な協力関係を築きました。
- 娘の婚姻: 娘の宝果公主を新羅の王子(後の法興王)に嫁がせるなど、両国の関係を血縁で結びつけました。
- 耽羅国の平定: 耽羅国が貢物を滞納したため、東城王は遠征を行い耽羅を百済の支配下に置きました。
日本との関係の冷え込み
これまでの百済王は日本と協力して高句麗に対抗してきました。でも東城王は新羅との同盟を優先し、日本との交流はあまり見られません。
- 漢城陥落時の日本の対応: 475年に百済が高句麗に襲われ首都・漢城が陥落したとき、日本は昆支王を百済に戻し物部氏を派遣して支援しましたが、漢城陥落の後でした。新羅の援軍に比べると遅かったことが東城王の不信感を招いた可能性があります。
- 東城王を担いだ勢力: 東城王を支持する勢力が親新羅派であった可能性も考えられます。
国力の回復と新羅との関係の変化
百済の国力が回復するにつれて、新羅との関係は微妙な変化を見せ始めました。
高句麗に対抗するため東城王は新羅との政略結婚を結びましたが、この関係は決して対等なものではありませんでした。
百済から王の娘を嫁がせたのに対し、新羅から来たのは真骨と呼ばれる貴族の娘でした。真骨は王族に準ずる身分でしたが、王位継承権を持つ聖骨の身分ではありません。
新羅は百済を「助けてやった」という意識を持ち、やや上から目線で接していたと考えられます。
新羅への警戒心の芽生え
時が経つにつれて東城王は新羅に警戒心をもつようになりました。501年には新羅との国境に城柵を建設。防衛体制を強化しました。新羅の勢力を警戒、自国の領土を守るためだったと考えられます。
東城王の外交政策の評価
東城王の外交政策は高句麗に対抗するために新羅との同盟が不可欠であるという現実的な判断に基づいたものでした。しかし日本との関係を冷え込ませたことは、新羅に足元をみられ百済の外交戦略に一定の制限をもたらしたと言えるでしょう。
東城王の晩年と没落
東城王は高句麗との戦いを経て国力を回復させたものの、晩年にはその振る舞いが大きく変わり民衆から離れていきました。
旱魃と民衆の苦しみ:
499年、百済は大旱魃に見舞われ国民は飢えに苦しみました。しかし東城王は民衆の苦しみを無視し、2千人もの民衆が高句麗に逃げてしまいます。
贅沢な生活と民衆の不満:
東城王は民衆が飢餓に苦しむ中でも王宮に豪華な臨流閣を建て、珍しい鳥を飼い夜通し宴会を開くなど贅沢な生活を送りました。臣下の意見を無視して宮殿に閉じこもるなど、その横暴な態度が民衆の不満を募らせました。
東城王の最後
501年。東城王は狩りの最中に衛士佐平の苩加(ペク・カ)の放った刺客に襲われて負傷。12月死亡しました。
その後、異母兄弟の隆が即位。百済第25代武寧王となりました。
なぜ東城王は民衆から離れていったのか?
東城王の晩年の変化は様々な要因が考えられます。
- 権力の集中: 国力を回復させたことで東城王は絶対的な権力を持つようになり、民衆の声に耳を傾けなくなった可能性があります。
- 贅沢病: 長年の権力闘争や贅沢な生活が東城王の精神状態に悪影響を与え、暴君へと変貌させた可能性も考えられます。
- 周囲の環境: 側近たちの迎合的な態度が東城王の独断的な行動を助長させたのかもしれません。
東城王の死が百済にもたらしたもの:
異母兄弟・隆(ユン)が即位。25代武寧王となりました。
東城王の死後、百済は新たな時代を迎えます。武寧王は東城王の失敗を教訓にして民心掌握に努めました。
武寧王は東城王の実の子ではない
武寧王と東城王の親子関係については古から様々な説が唱えられてきました。
従来の説と新たな発見
- 三国史記・三国遺事: これらの史書では、武寧王は東城王の次男とされています。
- 日本書紀: 日本書紀では、武寧王は東城王の異母兄弟であると記されています。
- 武寧王の墓の発見: 1971年に発掘された武寧王の墓からは、武寧王が462年に生まれ、523年に死亡したという記録が発見されました。東城王が455年に生まれ501年に死去していることから、東城王が7歳のときに次男が誕生していることになります。生物学的に不可能なので両者は親子ではなく従兄弟と考えたほうがいいでしょう。
- 宋書: 宋書においては、武寧王が蓋鹵王を父と呼んでいる記述が見られます。
結論
上記の史料から判断すると、武寧王と東城王が実の親子というのは無理があります。むしろ両者は異母兄弟か従兄弟だった可能性が高いです。
王の系譜を継ぐために東城王の養子になって即位したのでしょう。
テレビドラマ
帝王の娘スベクヒャン 2013年 MBC 演:チョン・チャン
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