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第一皇子 定安親王 永璜 は皇后の葬儀で乾隆帝を怒らせてうつ病になった

大清 1.3 清の皇子・男の皇族

 

定安親王・永璜(えいこう)は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの長男です。

大阿哥ともいいます。第一皇子という意味です。

母は富察氏。でも皇后の富察氏ではありません。

別の富察氏です。乾隆帝の皇子時代の側室だった富察氏の息子です。

史実の定安親王 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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定安親王・永璜 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1728年7月5日
没年月日:1750年4月21日

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:永璜(えいこう、満洲語:フンウァン)
称号:定安親王、定親王(追尊)
旗籍:正藍旗
父:乾隆帝(けんりゅうてい)
母:哲憫皇貴妃富察氏

正室:嫡福普・伊拉里氏
側室:側福普・伊爾根覚羅氏

子供
固山貝子綿徳、母:伊拉里氏

恭親王綿恩、母:伊爾根覚羅氏

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1728年(雍正6年)誕生。

父は雍正帝の第四皇子・弘暦(乾隆帝)。

母は格格・富察氏(哲憫皇貴妃)。
弘暦の正室も富察氏ですが、永璜の母ではありません。

妾(格格)の富察氏です。

弘暦にとっては最初の男子です。母は側室なので嫡子ではありません。

格格・富察氏は男子を生んだので「勝妾」扱いになりました。

勝妾は正室に準じた扱いを受ける妾。夫人として夫ともに公の場に出席することができます。正室が死亡したり正室に男子が生まれなかった場合は正室と同等の権利をもちます。他の妾よりも地位は上です。

永璜は雍正帝にとっても初孫なので非常に可愛がられました。

その後、富察氏は女子(第二皇女)を生みました。第二皇女は幼くして死亡しています。

母・富察氏は弘暦から寵愛されていたといいます。

1735年8月20日(雍正13年)。永璜が8歳のとき。母の格格 富察氏が病気で死去。格格 富察氏の詳しい年齢はわかりません。20代だったといいます。

父の弘暦が皇帝になる

1735年10月8日(雍正13年)。雍正帝が死去。父・弘暦が皇帝になりました。

永璜は大阿哥(第一皇子)と呼ばれるようになりました。

富察氏に「妃」の位が与えられました。

1736年(乾隆元年)。母の富察氏に正式に「哲妃」の称号が与えられました。

1738年(乾隆3年)。永璉が病死。乾隆帝は皇太子の格式で永璉の葬儀を行いました。雍正帝時代からの慣習で皇太子は決めないことになっています。でも秘密皇太子の制度があって乾隆帝は心に決めた皇子を紙に書いて残す制度がありました。乾隆帝は永璉を跡継ぎと思っていたのです。

1747年ごろまでに嫡福普 伊拉裡氏と結婚。

1747~8年(乾隆12年7月6日)。20歳のころ。長男・綿徳が生まれました。綿徳の母は嫡福普 伊拉裡氏。

1748年(乾隆12年8月14日)。次男・綿温が生まれました。
綿温の母は側福晋 伊爾根覚羅氏。

皇后の葬儀で失態

1748年4月8日(乾隆13年3月11日)。東巡で体調を崩し療養中だった富察皇后が死去しました。

乾隆帝や朝廷の人たちは悲しみながら葬儀の準備をしていました。

でも永璜は悲しくありませんでした。富察皇后は実の母ではないし、富察皇后の生んだ2人の息子も死亡しました。後継者争いの障害がなくなると思い、悲しんでいる乾隆帝の前でも平然としていました。

富察皇后が死去したのち乾隆帝はあまりにも悲しみが強くて些細な間違いにもひどく怒っていました。

永璜は乾隆帝の長男です。富察皇后の葬儀では皇子たちを代表して葬儀の重要な役目を任されました。永璜は葬儀では泣かないといけません。「子供は親の葬儀では泣く」のが「孝行」でありマナーなのです。

ところが永璜はそれほど悲しそうには見えませんでした。永璜と皇后は実の親子ではありません。内心では「皇太子になれるかもしれない」と思っていたのでしょう。永璜は葬儀の手順は間違いませんでしたが悲しみ方が不十分でした。

乾隆帝にはそれが不満でした。しかも永璜は時々笑顔さえ見せていました。永璜はそんなつもりはなかったのかもしれませんが、乾隆帝にはそう見えたのです。

乾隆帝は永璜をひどく叱りつけました。

庶長子の永璜と第三皇子の永璋は周囲の目から見ても候補からは外されていると写ったようです。

父親からひどく叱られたあと。永璜は「後継者から外された」と思いました。永璜は絶望のあまり心を閉ざしてしまいました。永璜は今でいう鬱病になりました。

 

病死

1750年(乾隆15年)。永璜は重病になってしまいます。

永璜は紫禁城の中にある自宅で危篤状態になりました。いよいよ死期が迫ってきました。

すると乾隆帝は「葬儀のために自宅以外の場所に移すのは慣習だが、あまりにも病弱な皇子を遠くに移動させるのは気の毒だ」ということで。永璜は紫禁城の中で死を迎えるのを許しました。

3月15日。永璜は死去。22歳の若さでした。

永璜の死後、乾隆帝は後悔しますが永璜はもういません。

永璜には二人の息子がいました。乾隆帝は永璜の子どもたちを可愛がります。

長男の綿徳は、乾隆帝によって「定親王」の位を与えられました。

次男の綿恩も乾隆帝に非常に可愛がられました。

 

テレビドラマ

 

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
 役名:大阿哥、愛新覺羅·永璜  演:丁桥

ドラマでは最初は野心的な人物ではありませんでした。徐々に次期皇帝になるという野心が芽生えます。長男なので皇太子になるべきと考えるようになります。

孝賢純皇后が哲憫皇貴妃を殺したと誤解。孝賢純皇后の葬儀で皇帝を怒らせるような態度を取ります。その後うつ病になり死亡します。

孝賢純皇后との不仲は創作ですが、死にいたるまでの大まかな流れは史実をもとにしています。

 

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