洪麟漢(ホン・インハン)は18世紀の李氏朝鮮王朝の政治家。「赤い袖先」では洪定汝(ホン・ジョンヨ)、「イ・サン」では洪璘漢(ホン・イナン)の名で登場します。「イ・サン」では謀反を企むなど史実より悪者らしく脚色されています。
領議政 洪鳳漢(ホン・ボンハン)の異母弟、恵慶宮洪氏(ヘギョングンホンシ)の叔父、正祖(イ・サン)の大伯父の立場にいながら、老論派の外戚として強大な権力を握り世孫と激しく対立しました。
この記事ではドラマの姿と史実を比較しながら、正祖の即位後、処刑された老論派の指導者、洪麟漢の生涯と人物像を詳しくご紹介します。
この記事でわかること
- 洪麟漢の基本プロフィールや家族構成、官職の経歴
- 世孫・李祘の代理聴政に反対した経緯や老論派内での立場
- 洪国栄と洪麟漢が敵対関係にあった理由
- 正祖の即位後に死罪に処されるまでの顛末
洪麟漢(ホンインハン)の史実
プロフィール
- 名前:洪麟漢(ホン・インハン)
- 字:定汝(チョンヨ)
- 称号:
- 本貫:豊山
- 党派:老論
- 生年月日:1722年
- 没年月日:1776年7月5日または11日。
家族
- 父:洪鉉輔
- 母:李氏
- 兄:洪鳳漢(ホン・ボンハン)
- 妻:平山夫人 神氏
- 子供:洪樂遠
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の英祖~正祖時代の人物、日本では江戸時代にあたります。
洪麟漢(ホンインハン)の実話
生い立ちと家柄
洪麟漢は1722年に誕生しました。 父は左参賛(チャチャムチャン)の洪鉉輔(ホン・ヒョンボ)。 異母兄には、後に領議政(ヨンイジョン)となる洪鳳漢(ホン・ボンハン)がいます。
また、日本から朝鮮に初めてサツマイモを導入したことで知られる趙曮(チョ・オム)は、彼の義兄にあたります。
名門・豊山洪氏と王室とのつながり
彼は名門・豊山洪氏一族の一員。宣祖(ソンジョ)の6代孫、貞明公主と永安委(ヨンアンウィ)洪柱元(ホン・ジュウォン)の5代孫です。 具体的には洪柱元の長男・洪萬容(ホン・マンヒョン)の子孫になります。

ホン一族の家系図
官職の経歴:左議政まで昇り詰める
彼は名門・豊山洪氏一族の一員だったこと。恵慶宮 洪氏の叔父ということもあって、英祖から信頼され順調な役人生活を送っていました。
洪麟漢は蔭敍(おんじょ/推薦)で官職に就いた後、いくつかの役職を経験します。 そして1753年に科挙に合格しました。
承政院、司諫院などを務めた後、1757年には全羅道(チョルラド)の観察使になりました。
その後も要職を歴任し昇進を重ねます。
- 1760年:都承旨(トスンジ)
- 1762年:湖南安集使(ホナムアンジプサ)
- この年、思悼世子が死亡(壬午禍変)
- 1764年:漢城府左尹(ハンソンブジャユン)
- 以後、兵曹参判(ピョンジョチャムパン)、礼曹参判(イェジョチャムパン)、都承旨、京畿道観察使(キョンギドクァンチャルサ)、吏曹判書(イジョパンソ)、兵曹判書(ピョンジョパンソ)などを務める。
- 1774年:議政府右議政(ウィジョンブウイジョン)
- 1775年:議政府左議政(ウィジョンブジャイジョン)
このころの洪麟漢は世孫の外戚として老論派の指導者となり、朝廷で極めて大きな力を振るうようになりました。
洪国栄との敵対関係
洪麟漢は親戚の 洪国栄(ホン・グギョン)とは、もともと仲が悪かったとされています。
恵慶宮の著書『閑中錄』によると、理由は定かではありませんが洪国栄の伯父・洪楽純(ホン・ナクスン)と洪麟漢は互いに仇のように仲が悪かったといいます。 そのため、洪麟漢は洪楽純の甥である洪国栄とも敵対することになりました。
世孫・李祘(イ・サン)との激しい対立
代理聴政(代理清政)への反対
1775年、英祖が世孫の李祘(イ・サン/後の正祖)に政務を代行させる代理聴政を任せると発表した際、洪麟漢は激しく反対しました。
彼は「世孫は朝廷の仕事については知る必要がない」と主張。 当時、老論派の内部でも世孫を支持する派閥と反対する派閥があり、洪麟漢は強硬な世孫反対派の代表格でした。
恵慶宮洪氏が代理聴政を邪魔しないようにと洪麟漢に手紙を送ったにもかかわらず、洪麟漢はこれを無視。 和緩翁主(ファワンオンジュ)の養子・鄭厚謙(チョン・フギョム)、沈翔雲(シム・サンウン)らとともに反対を続けました。
洪麟漢は世孫の大叔父でしたが世孫を支える気は一切ありません。 それどころか「洪氏を攻撃すれば東宮(世孫)に敵対することだ」と言い、世孫の親戚という立場を利用して人々を威嚇していました。
洪国栄の反撃と代理聴政の決定
洪麟漢たちの強硬な反対により、世孫の代理聴政はなかなか決定できませんでした。 そこで世孫を支持する洪国栄は、少論派の徐明善(ソ・ミョンソン)に頼み、洪麟漢を弾劾させました。
これに対し、洪麟漢は沈翔雲に命じて徐明善を攻撃させますが、英祖は沈翔雲を流罪に処しました。 そして、洪麟漢たちの反対を押し切る形で、ついに世孫の代理聴政が決定されたのです。
正祖即位後の粛清と最期
正祖による弾劾の開始
1776年、英祖が崩御し、正祖 李祘(イ・サン)が即位しました。 即位から半月後、正祖は本格的な反対派の粛清に乗り出します。
老論派の李ケイ(サンズイに桂)が鄭厚謙に対する弾劾を起こし、鄭厚謙の死刑と、和緩翁主の追放を要求しました。 英祖は鄭厚謙を流罪にはしていましたが、和緩翁主の追放は認めず、逆に李ケイを追放していました。
正祖はこれを受け、こう発表します。
「とるに足らない鄭厚謙に対してはすぐに処断するのに、気勢が天に届こうとしている者にはその権勢を恐れて誰も咎めようとしないのか。それで三司は職務を果たしていると言えるのか。よって三司の要職についている者は追放する」
この「気勢が天に届こうとしている者」とは、もちろん洪麟漢を指していました。
処刑の決定
慌てた老論派は、鄭厚謙親子の資材没収と洪麟漢の流罪を要求しました。 これは、洪麟漢の処分が避けられないと悟った老論派が、せめて流罪にとどめようとした策でした。 しかし、結局この訴えが洪麟漢の指示だったことが露見します。
最終的に三司(ササ)は、鄭厚謙と洪麟漢の死罪を要求。正祖もこれを認めました。
1776年、洪麟漢は鄭厚謙などと共に全羅道 莞島郡 古今島(ワンドグン コゴムド)に流刑され、島で処刑されました。
処刑日については、朝鮮王朝実録と承政院日記には7月5日と記録されていますが、恵慶宮の『閑中錄』には7月11日に刑が執行されたと記されています。
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