スポンサーリンク

黄喜(ファン・ヒ)太宗と世宗の信頼の厚かった重臣

1.4 李氏朝鮮の重臣

黄喜(ファン・ヒ)は李氏朝鮮の重臣。特に太宗、世宗に仕えた重臣です。

高麗時代に役人になった黄喜は、李氏朝鮮になってもなかなか従おうとしませんでした。

有能さを認められ太宗に信頼されますが、後継者問題で太宗と意見があわず左遷されます。世宗の即位を反対した人物でしたが、その人柄と有能さから世宗からは信頼されました。歴代最長の領議政を勤めた人物です。

史実の黄喜(ファン・ヒ)どんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

黄喜(ファン・ヒ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1363年3月8日
没年月日:1452年2月28日

名前:黄喜(ファン・ヒ)
雅号:厖村
本貫:長水黄氏
派閥:南人派
父:黄君瑞
母:金佑の娘
妻:

子供

彼が主に活躍しのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に3代太宗~4代世宗の時代です。

日本では室町時代の人になります。

 

1363年(恭愍王 12年)。黄喜(ファン・ヒ)が生まれたのは高麗時代。

父は高麗の判江陵大都護府使だった黄君瑞。
出身地は開京(開城)です。

名家の出身ですが、黄喜(ファン・ヒ)の母は正室ではありませんでした。

黄喜は背が高く美形だったといいます。

記憶力が優れ頭がよい少年でした。勉強熱心だったので彼を知る人々は将来は立派な人になるだろうと噂しました。

1376年(ウ王 2年)。14歳のとき、蔭位制度で下級役人に採用されました。

1380年。 17歳のとき、裁判官福示唆(判司僕侍事)崔安の娘と結婚。娘が生まれましたが、24歳のときに妻が死亡。26歳で工曹典書の楊震の娘と再婚しました。

1389年(昌王元年)。科挙に合格しました。

朝鮮王朝の建国

1392年。李成桂(イ・ソンゲ)によって高麗王朝が滅ぼされ、李氏朝鮮王朝が建国しました。

黄喜(ファン・ヒ)は高麗王朝への忠誠を貫くため、70人の仲間とともに新王朝への出仕を拒否、杜門洞に蟄居ました。

李成桂は杜門洞を包囲。黄喜らに出仕するように要求しました。最終的にかつての同僚たちの説得で杜門洞を出ることになりました。このとき、立て籠もった者たちの中で最年少だった黄喜が朝鮮王朝に仕えることになりました。

1394年(太祖3年)。その後は直芸文春秋館、司憲監察を務めましたが。太祖・李成桂に従わないないことも多く、その後、左遷、免職、復職を繰り返します。

太宗の信頼を得る

黄喜(ファン・ヒ)が政治家として重要な地位につくのは太宗時代からです。

1402年(太宗4年)。右司諫大夫などを担当。

しかし太宗・李芳遠(イ・バンウォン)は、高麗に忠誠を尽くし朝鮮の朝廷に尽くそうとしない黄喜を快く思っていませんでした。しかし知申事(秘書室長)だった薄石人が後任の知申事として黄喜を強く推薦しました。太宗も仕方なく採用します。

1405年(太宗5年)。黄喜は知申事になりました。

1408年(太宗8年)。このころ太宗の妃・元敬王后の実家・閔一族が外戚として影響を強めていました。

太宗は閔一族の力を失わせるため閔無恤(ミン・ムヒュル)兄弟の失脚を計画しました。閔無恤(ミン・ムヒュル)は太宗の妃・元敬王后の弟です。

黄喜は先頭に立って閔無恤兄弟の批判を行いました。この件で黄喜は太宗から大きな信頼を得ました。その後、刑曹、礼曹、兵曹等の要職を歴任します。

太宗は政治的決断をするときは黄喜と相談するほど信頼しました。

世子廃位問題

1413年(太宗 13年)。太宗は譲寧大君から王世子の資格を剥奪しようと考え、次の世子を誰にするか重臣たちの意見を聞きました。

黄喜は譲寧大君の廃位に反対。太宗の怒りを買って左遷されます。

1413年 4月。復職して礼曹判書になりました。

1414年 6月。病気を理由に辞職しましたが。6月には礼曹判書に任命されます。

1416年(太宗 16年)。譲寧大君の廃位に反対。譲寧大君を庇って太宗の怒りをかい罷免されますが、その後、工曹判書になりました。

1418年(太宗 18年)。太宗は三男の忠寧大君(世宗)を王世子にすると発表しました。

黄喜はこの決定に反対して流罪になります。南原で5年間暮らしました。

世宗時代

1422年(世宗 4年)2月。上王になっていた太宗は黄喜を呼び戻しました。

1422年(世宗 4年)3月。黄喜は朝廷に復帰しました。

1431年(世宗13年)。領議政になりました。

農業の改良、礼法の改正、国防強化政策を実施。国の基礎を築きました。

金宗瑞(キム・ジョンソ)、崔潤徳(チェ·ユンドク)らを採用。女真族対策、倭寇対策をすすめました。

世宗は様々なことをしようとしましたが、重臣たちとの間に摩擦が生まれました。

また、温厚で不正が嫌いな重臣たちからも信頼されていました。

そのため黄喜は世宗と重臣たちとの間にはいり調整役を務めました。

年老いて病がちになり何度も引退しようとしましたが世宗に引き止められました。

長い間、役職にあったので処世術に長けた人物だと陰口を叩かれることもありました。また、道端で会った若い儒学生が「宰相なのに王の過ちを止められないのか」と文句を言ったときも、喜んでいました。

若い頃の黄喜は相手が王でも自分の意見を曲げない意志の強いところがありました。晩年の黄喜は人の批判を受け止める器の大きなところがあったようです。

1449年(世宗31年)。87歳で辞職。

1452年(世宗34年)。享年90(数え年)。

テレビドラマ

龍の涙 1995年 KBS パク・チンソン
大王世宗 2008年 KBS キム・ガプス
根の深い木 2011年 SBS チョン・ソンファン

コメント