李和尙(イ・ファサン)は高麗末期から朝鮮初期の武将。
父の李之蘭(イ・ジラン)は女真族で李成桂の義兄弟になりました。
そのため李之蘭の息子たちも李成桂とその一族に仕えます。
李和尙(イ・ファサン)も李之蘭の息子のひとりです。
韓国ドラマ「太宗 イ・バンウォン」にはイ・ジランの息子としてイ・ファサンが登場します。
史実のどんな人物だったのか紹介します。
イ・ファサンとは?
ドラマ「太宗イ・バンウォン」のイ・ファサンはイ・ジランの息子。
ドラマではイ・ジランの息子はファサンしかいません。ファサンの母も出てこないので。
イ・ソンゲの家族以外はできるだけ人数を減らしているようです。
ドラマのファサンはイ・ソンゲの息子たちと戦場を駆け巡り、まるで兄弟のように接しています。
とくにバンウォン夫妻とは仲がよく。バンウォンを「兄さん」、ミン氏を「姉さん」と呼んでいます。
ファサンは権力や財産にはあまり興味がなく。父のジランが太祖 イ・ソンゲから多くの土地や褒美をもらったときも「もらいすぎ」と不満を言っていました。
ファサンは地位や財産よりも人との付き合いを好み、義理人情で動いているようです。
バンウォンが危険に遭うびに、彼を助けに入りました。
でも思慮深さはなく、思ったことを口に出してしまいます。
バンウォンの妻・ミン氏に「兄さん妾をもたないのは姉さんが怖いからだ」などと言ったり。よけいな一言で人を不快にさせることもあります。
でもバンウォンの良い弟分。憎めない人物として描かれます。
ファサン以外にもいた李之蘭(イ・ジラン)の息子たち
「太宗実録」や「高麗史」によると李之蘭(イ・ジラン)には4人の息子がいました。
4人とも役職についていましたが、李和英以外には詳しい記録は残っていません。
李和尚(イ・ファサン)
官職は工曹判書
工曹判書といえば正二品なので大監(テガム)とばれる高い地位です。それにもかかわらずあまり記録がありません。
兄弟の和英は記録が多いのですが、和尚の記録は少ないです。
和尚が和英ほど手柄をたてていないのか、無難に仕事を務めたので記録に残すようなことがなかったのかは不明。
和尚は太宗実録にも名前が出てこないので早くに亡くなっている可能性もあります。
いずれにしろ詳しいことはわかっていません。
李和英(イ・ファヨン)
18歳で官職に付き、若いころから李成桂のもとで働いていました。
郎将から何度も出世して保功大将軍になりました。
朝鮮建国時には開國功臣になりました。その後も太祖に仕え。太祖1年には上将軍になりました。
他にも承樞府同知摠制、都摠制、判左軍都摠制府事などを務めました。
定宗2年には、李芳遠を護衛した功績で褒美と奴婢をもらいました。
太宗2年には外出先で太宗の危機を知り、急いで戻って駆けつけました。太宗は和英の忠誠を喜び、自分の上着を和英に着せました。以後も太宗は和英を信頼していました。
世宗5年。和英は引退を世宗に届け出ると世宗は認めて郊外で餞別の宴を開きました。
世宗6年(1424年10月27日)。病死。
和英は心が真っ直ぐな人だったといいます。
李和美(イ・ファミ)
官職は判漢城府使
太宗14年(1414年4月28日)に死去。
父親譲りの戦いの才能があったといいます。
李和秀(イ·ファス)
官職は礼曹参判
母は象山郡夫人 康氏
李之蘭には咸安郡夫人 尹氏と象山郡夫人 康氏の二人の妻がいました。
和尚・和英・和美・和秀の母はいずれも象山郡夫人 康氏です。
象山郡夫人は礼儀判書 康普戴の娘。
李成桂の第二夫人 神徳王后 康氏の親戚。
和尚ら之蘭の息子たちは神徳王后 康氏の親戚にもなります。李芳遠が神徳王后の息子・李芳碩(イ・バンソク)を討ったときは苦しい立場に置かれたかも知れません。
李之蘭とその息子たちは最終的には李芳遠を選んだようです。
象山郡夫人 康氏は神徳王后 康氏よりも5歳年上。
神懿王后 韓氏よりは10歳以上年下になるので。李之蘭の息子たちは李芳遠たち韓氏の息子たちよりも年下の可能性が高いです。
ドラマ「太宗イバンウォン」でファサンがバンウォンを「兄さん」と呼んでいるのは納得できます。
ドラマのファサンは歴史上の和尚や和英などジランの息子たちを一人にまとめたような人物として描かれています。
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