懿仁王后(ウィイン王妃)は李氏朝鮮14代宣祖の王妃。
宣祖の王妃というと2人めの仁穆王后(インモク王妃)が有名です。
一人目の懿仁王后は子供がなかったため。宣祖からは冷たくされていました。
史実の懿仁王后(ウィイン王妃)はどんな人物だったのか紹介します。
懿仁王后(ウィインワンフ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1555年5月5日
没年月日:1600年8月5日
名前:朴氏(パク氏)名は不明
称号:懿仁王后(ウィインワンフ)
父:朴應順
母:全州李氏
夫:宣祖
子供:なし
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の妃です。
日本では戦国時代の人になります。
おいたち
1569年。宣祖が即位して2年目。15歳で王妃になりました。
宣祖と懿仁王后の間にはなかなか子が出来ませんでした。懿仁王后は、子宝の祈願のため乾鳳寺や法住寺など各地のお寺に寄進しました。それでも子供は出来ませんでした。
王妃であるにも関わらず、宣祖は懿仁王后を冷たく扱いました。
宣祖は側室の恭嬪金氏を寵愛していました。恭嬪金氏が病で亡くなると、宣祖は仁嬪金氏を寵愛しました。
1592年。壬辰戦争(1度目の朝鮮出兵、文禄の役)が始まると、宣祖は仁嬪金氏とその子を連れて避難しました。懿仁王后は平安道 江界に避難しました。普通は王が避難するのなら王妃も共に避難するはずです。でも、宣祖は寵愛する仁嬪金氏だけを同行させ王妃は同行させませんでした。
戦のあと、都の漢城(ソウル)が修復されると宣祖は仁嬪金氏と共に戻りました。しかし懿仁王后は漢城には戻れず海州に滞在しました。
懿仁王后は世子になった光海君を養子にしました。光海君は側室の子供だったので、王位後継者としての立場は強くありません。王妃の養子になることで光海君の立場は強くなります。
懿仁王后としても、光海君が王になれば大妃になれます。老後は安泰になるかと思われました。
1597年。丁酉戦争(2度目の朝鮮出兵、慶長の役)が始まるとまたしても宣祖は仁嬪金氏とその子を連れて避難しました。
懿仁王后は世子の光海君につれられ避難しました。
もともと体の弱かった懿仁王后は避難生活でさらに体調が悪くなりました。
1600年。病状が回復しないまま亡くなりました。享年46歳。
宣祖は懿仁王后の死後、慈愛に満ち、寛容で、真面目な王妃だったと延べ、王妃の死を悲しむ言葉を残しました。
高慢な態度をとることはなく、言葉も控えめで優しかったので懿仁王后は人望があったようです。早くに母をなくした光海君にとっては母親のような存在でした。
光海君は懿仁王后の養子になったことで王位後継者としての立場が強くなりました。しかし、宣祖は壬辰倭乱の働きで人気の出ていた光海君をますます嫌うようになります。
懿仁王后は宣祖からは大切にされることはなく、仏教を心の支えにして耐え忍びました。
もし懿仁王后が長生きしていれば宣祖は再婚することなく光海君は何の問題もなく王になり(臨海君の存在は問題になったかもしれませんが)、優れた王として名を残したかもしれません。
懿仁王后の死後、王妃になった仁穆王后(インモク王妃)に息子が産まれたことで悲劇が起こります。
テレビドラマのインスン王妃
壬辰倭乱 MBC 1985年 演:キム・ヨンソン
王の女 SBS 2003年 演:イ・ヒョチュン
不滅の李舜臣 KBS 2004年 演:ファン・ミソン
王の顔 KBS 2014 演:イム・ジウン
懲毖録 KBS 2015 演:ファン・インヨウン
魔女宝鑑 JTBC 2016 演:ガン・ハンナ
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