淑嬪崔氏(スクピンチェシ)は朝鮮王朝19代国王・粛宗の側室。ドラマ「トンイ」でヒロインになって注目を集めました。
その一方で本当の淑嬪崔氏は「実は悪女だ」「淑嬪崔氏を陥れた女だと」言われることもあります。なぜそのような事が言われるのでしょうか?
この記事では淑嬪崔氏が悪女と呼ばれる理由や、その真実について史実に基づき徹底解説します。
この記事でわかること
- 淑嬪崔氏が「悪女」と呼ばれるのは、主に張禧嬪を呪いの罪で粛宗に訴え死に追いやったとされるから。
- この訴えの背景には閔鎭遠や老論派といった政治的な勢力が存在していたこと。
- 身分の低い淑嬪崔氏は自分と息子の生き残りのために、したたかに生き抜いた賢い女性であった。
淑嬪崔氏のプロフィールについてはこちらを御覧ください
・トンイのモデル・淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の史実
淑嬪崔氏が悪女と呼ばれる理由とは?張禧嬪との対立が原因?
ドラマ「トンイ」に登場する淑嬪崔氏は、正義感が強く賢い女性として描かれています。
「トンイ」以前にも淑嬪崔氏がドラマに登場することはありましたが、その多くは張禧嬪と仁顕王后の対立が中心で、淑嬪崔氏は目立たない存在でした。
「トンイ」によって初めて淑嬪崔氏の人生にも注目が集まりました。しかし、「トンイ」を称賛する声が高まるほど、「いや、そうではない。史実の彼女は張禧嬪を陥れた悪女だった」という批判的な声も聞かれるようになりました。実際に、ドラマ「チャン・オクチョン-愛に生きる」では、その小悪魔的な姿が描かれています。
なぜこのような見方がされるのでしょうか?それは主に張禧嬪との激しい対立が背景にあります。
王妃の死後、張禧嬪の呪術を粛宗に訴える
仁顕王后の死後、淑嬪崔氏は粛宗に対し、禧嬪張氏が呪いをかけていたと訴えました。仁顕王后は闘病生活の末に亡くなりましたが、淑嬪崔氏は「呪いのせいで病気がひどくなり亡くなったのだ」と訴えたのです。
禧嬪張氏は、祈祷していたことは否定しませんでした。しかし、それは「世子の病気の回復を願っての祈祷だった」と主張しました。これに対し、淑嬪崔氏は粛宗に対して、仁顕王后を呪っていたのだと訴え続けました。また、禧嬪張氏が自分(淑嬪崔氏)を苦しめようとしているとも話していたといいます。
淑嬪崔氏の訴えが届いたのでしょうか。結果として、禧嬪張氏は死を賜ることになってしまいました。
淑嬪崔氏以外の訴えと老論派の思惑
同じ頃、仁顕王后の兄弟たちも「王妃は生前、病気の症状がとてもおかしい」と粛宗に訴え、呪いがあったのではないかと主張しました。
つまり、禧嬪張氏を訴えていたのは淑嬪崔氏だけでなく、老論派(西人派)の人々も同様だったのです。
仁顕王后の死後、西人派から分裂した少論派が再び禧嬪張氏を王妃にしようという動きがありました。それを阻止するために、老論派が仕組んだのではないかという説もあります。
儒教の影響が強い李氏朝鮮では呪術は禁止されていました。理由はどうあれ、呪術を行っていたことが露見してしまえば、批判の口実になるのです。老論派はそれをうまく利用したのでした。
淑嬪崔氏としても、禧嬪張氏が再び王妃になり、禧嬪張氏を支持する重臣たちが力を持ってしまえば、自分の息子の命が危なくなるかもしれません。そこで、老論派に協力することにしたのかもしれません。
淑嬪崔氏の裏にいた人物たち
淑嬪崔氏は「張希載が自分を毒殺しようとした」と粛宗に涙ながらに訴えたこともあります。確かに淑嬪崔氏は、南人派を追い詰める段階で活躍しました。そこで、「本当の悪女は淑嬪崔氏だ」という意見もあります。
仁顕王后の弟・閔鎭遠による指示?
しかし、淑嬪崔氏が粛宗に訴えたという記述を残したのは、仁顕王后の弟・閔鎭遠(ミン・ジンウォン)です。
閔鎭遠は老論派の中でも過激な人物で、たびたび禧嬪張氏や世子を批判していました。淑嬪崔氏は閔鎭遠の指示で訴えたのかもしれません。また、英祖(ヨンジョ:後の淑嬪崔氏の息子)の時代になって粛宗時代の記録が編集されましたが、その編集の責任者をつとめたのも閔鎭遠です。これらの訴えが閔鎭遠の考えによるものだった可能性も指摘されています。
老論派の策士・金春澤の作戦?
西人派の金春澤(キム・チュンテク)が考えた作戦だった可能性もあります。
金春澤はかなりの策士で、仁顕王后を復権させる運動にも深く関わっていました。
「張禧嬪」などのドラマでは金春澤の暗躍が描かれています。「トンイ」では金春澤は登場せず、よき協力者としてのシム・ウンテクに変更されました。
したたかに生きた女性
淑嬪崔氏が粛宗に訴えたことが、自分で考えたことなのか、誰かに指示されたことなのかは分かりません。
普段は控えめで大人しくしていただけに、何かを訴えたときには粛宗の心を動かすことはあったかもしれません。淑嬪崔氏は、自分と息子が生き残るためにしたたかに生きた女性だったのは間違いないでしょう。
粛宗自身も禧嬪張氏を二度と王妃にしたくはないと考えていました。淑嬪崔氏、西人派、粛宗それぞれの思惑が一致した結果と言えるでしょう。
老論派との協力関係
もともと身分の低い淑嬪崔氏は、宮廷では知り合いがいません。仁顕王后に仕える宮人だったという説もあります。そのためか、淑嬪崔氏は仁顕王后と親しくしていたようです。仁顕王后は老論派(西人派)でした。
もともと後ろ盾のない淑嬪崔氏にとって、老論派からの誘いを断る理由はなかったでしょう。こうして淑嬪崔氏も老論派の一員として禧嬪張氏との対立に巻き込まれていきます。
淑嬪崔氏は寧嬪金氏(ヨンビンキムシ)(仁顕王后存命中は貴人)とも親しかったといいます。寧嬪金氏も同じ老論派でした。
そのため、同じ老論派の側室同士、淑嬪崔氏、仁顕王后、寧嬪(貴人)金氏は親しくなったようです。淑嬪崔氏の死後、息子の延礽君(ヨニングン:後の英祖)を育てたのは寧嬪金氏でした。淑嬪崔氏の産んだ延礽君は、老論派の希望となったのです。
淑嬪崔氏は王妃になろうとした?
禧嬪張氏が処刑された後、淑嬪崔氏が王妃になろうとしたという説がありますが、これも説得力のない作り話だといわれます。
粛宗の側室は王妃になれない法律
粛宗は「側室は王妃にはなれない」という法律を作りました。これは、禧嬪張氏を王妃にしようとする少論派と、寧嬪金氏を王妃にしようとする老論派、両方を牽制するためでした。
淑嬪崔氏はもともと生まれの身分が低かったため、王妃候補にすらなっていません。淑嬪崔氏の息子の延礽君を世子にしようとしている老論派でさえも、淑嬪崔氏を王妃にしようとは考えていなかったのです。
「禧嬪張氏は賤民出身なのに王妃になったではないか」と言われることがありますが、これは誤りです。禧嬪張氏は両班と常人(庶民)の中間となる中人(チュンイン)の出身です。両班、中人、常人は良民と呼ばれ、良民と賤民では大きな違いがあります。
禧嬪張氏を王妃にしたときは、粛宗にとって息子を世子にする大義名分がありました。しかし、既に世子がいる状態では、息子のいる側室を正室にする意味はありません。粛宗は延礽君を新しい世子にする考えはなかったのです。
淑嬪崔氏がどのように思っていたかは分かりませんが、どう考えても淑嬪崔氏が王妃になることはあり得なかったのです。
気苦労の多かった淑嬪崔氏
身分制度の厳しい李氏朝鮮では、高い地位になっても生まれによる差別を受けることがよくあります。身分が低かった淑嬪崔氏は側室になっても、常に周囲の人々に心配りをしていました。
禧嬪や他の側室に対しても穏やかな言葉遣いで気を使っていたといいます。粛宗が見ても「気苦労している」と感じるほどだったといいます。
仁顕王后やその後に王妃になった仁元王后は、そんな淑嬪崔氏の理解者でした。周囲の者が淑嬪崔氏を悪く言うと、王妃はその者たちを叱ったといわれます。
まとめ:歴史解釈とドラマの「淑嬪崔氏」
歴史上の解釈では、淑嬪崔氏は西人派の操り人形のような存在でした。西人派の指示で禧嬪張氏たちを陥れる発言をした、と見られていたのです。
そんな解釈を打ち破ったのがドラマ「トンイ」でした。自主性があって正義感が強い女性として描かれ、人気を集めました。
そうなると、「いやいやそうじゃない、本当は悪女なんだ」と反発する意見も出てきます。まさに「チャン・オクチョン-愛に生きる」の小悪魔的な姿は、そんな解釈でつくられました。
西人派の指示だったにしろ、自分で考えたにしろ、身分の低い彼女が自分と息子が生き残るために、宮中で味方を作り生き延びるのは並大抵のことではありません。したたかで頭のよい女性だったのは間違いないでしょう。
テレビドラマの淑嬪崔氏
- 朝鮮王朝五百年 仁顕王后 1988年 MBC 演:キョン・ミリ
- 妖婦 張禧嬪 1995年 SBS 演:ナム・ジュヒ
- 大王の道 1998年 MBC 演:キム・ヨンエ
- 張禧嬪-チャン・ヒビン 2003年 KBS 演:パク・イェジン
- トンイ 2010年 MBC 演:ハン・ヒョジュ
- チャン・オクチョン-愛に生きる 2013年、SBS 演:ハン・スンヨン
- テバク〜運命の瞬間(とき)〜 2016年 SBS 演:ユン・ジンソ


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