ドラマ「トンイ」でヒロインになって注目を集めた淑嬪崔氏。それまでにも張禧嬪のドラマはいくつもありました。当然、淑嬪崔氏も何度も出てきました。でも、どちらかというと張禧嬪と仁顕王后の対立が中心で淑嬪崔氏は目立たない存在でした。
トンイによって淑嬪崔氏の人生にも注目が集まりました。その一方で本当の淑嬪崔氏はあんなに正義感の強い人じゃない、実は悪女だ、淑嬪崔氏を陥れた女だと言われることもあります。
「チャンオクチョン・愛に生きる」に登場した淑嬪崔氏が本当の姿に近い。と言われることもあります。はたして歴史上の淑嬪崔氏はどのような人だったのでしょうか。
淑嬪崔氏のプロフィールについてはこちらを御覧ください
・トンイのモデル・淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の史実
この記事では悪女説についてせまってみたいと思います。
淑嬪崔氏は王妃を呪った罪で禧嬪張氏を訴えた
仁顕王后の死後、淑嬪崔氏は粛宗に禧嬪張氏が呪いをかけていたと訴えました。仁顕王后は闘病生活の末に亡くなりました。呪いのせいで病気がひどくなって亡くなったのだと訴えたのです。
禧嬪張氏は祈祷していたことを否定しませんでした。世子の病気の回復を願って祈祷をしていたと言ったのです。しかし淑嬪崔氏は粛宗に対して仁顕王后を呪っていたのだと言いました。また、淑嬪崔氏は粛宗に禧嬪張氏が自分を苦しめると話していたといいます。
淑嬪崔氏の訴えがとどいたのでしょうか。禧嬪張氏は死ぬことになってしまいました。
同じ頃、仁顕王后の兄弟たちも「王妃は生前、病気の症状がとてもおかしい」と話していたと粛宗に訴えました。呪いがあったのではないかというのです。
淑嬪崔氏だけでなく老論派(西人派)の人々も禧嬪張氏を訴えていたのです。
仁顕王后の死後、西人派から分裂した少論派が再び禧嬪張氏を王妃にしようという動きがありました。それを阻止するために老論派が仕組んだのはないかという説もあります。
儒教の影響の強い李氏朝鮮では呪術は禁止されていました。理由はどうあれ、やってることがばれてしまえば批判の口実にはなるのです。老論派はそれをうまく利用したのでした。淑嬪崔氏としても禧嬪張氏が再び王妃になり、禧嬪張氏を支持する重臣たちが力を持ってしまえば息子の命が危なくなります。そこで協力することにしたのかもしれません。
淑嬪崔氏の裏にいた人物
また淑嬪崔氏は「張希載が自分を毒殺しようとした」と粛宗に涙ながらに訴えたこともあります。確かに淑嬪崔氏は南人派を追い詰める段階で活躍しました。そこで「本当の悪女は淑嬪崔氏だ」という意見もあります。
仁顕王后の弟・閔鎭遠が裏で操っていた?
でも、それも違うようです。淑嬪崔氏が粛宗に訴えたと書いていたのは仁顕王后の弟・閔鎭遠です。閔鎭遠は老論派の中でも過激な人でした。たびたび禧嬪張氏や世子を批判していました。淑嬪崔氏は閔鎭遠の指示で訴えたのかもしれません。英祖の時代になって粛宗時代の記録が編集されましたが、編集の責任者をつとめたのも閔鎭遠です。閔鎭遠が考えたのかもしれません。
老論派の策士・金春澤の作戦?
西人派の金春澤(キム・チュンテク)が考えた作戦だった可能性もあります。金春澤はかなりの策士で仁顕王后を復権させる運動に関わっていました。
謝氏南征記を作ったのは金春澤の伯父でしたがハングル版でした。謝氏南征記の漢字版を作って宮中に広めたのは金春澤です。「張禧嬪」などのドラマでは金春澤の暗躍が描かれています。トンイでは金春澤は登場せず、よき協力者としてのシム・ウンテクに変更されました。
粛宗に言ったことが自分で考えたのか指示されたのかは分かりません。普段は控えめに大人しくしているだけに、何か訴えたときには粛宗の心を動かすことはあったかもしれません。淑嬪崔氏は自分と息子が生き残るためにしたたかに生きた女性だったのは間違いないようです。
粛宗自身も禧嬪張氏を二度と王妃にしたくはないと考えていました。淑嬪崔氏、西人派、粛宗それぞれの思惑が一致したのでしょう。
淑嬪崔氏と親しかった人々
もともと身分の低い淑嬪崔氏は宮廷では知り合いがいません。仁顕王后に使える宮人だったとという説もあります。だからでしょうか淑嬪崔氏は仁顕王后と親しくしていたようです。仁顕王后は老論派(西人派)でした。もともと後ろ盾のない淑嬪崔氏にとって老論派からのさそいを断る理由はなかったでしょう。淑嬪崔氏も老論派の一員として禧嬪張氏との対立に巻き込まれます。
淑嬪崔氏は寧嬪金氏(仁顕王后存命中は貴人)とも親しかったといいます。寧嬪金氏も同じ老論派でした。
そのため同じ老論派の側室同士、淑嬪崔氏、仁顕王后、寧嬪(貴人)金氏は親しくなったようです。淑嬪崔氏の死後、息子の延礽君を育てたのは寧嬪金氏でした。淑嬪崔氏の産んだ延礽君は老論派の希望になったのです。
王妃になろうとした?
禧嬪張氏が処刑された後、淑嬪崔氏が王妃になろうとしたという説があります。これも説得力のない作り話だといわれます。
粛宗は「側室は王妃にはなれない」という法律を作りました。禧嬪張氏を王妃にしようとする少論派と、寧嬪金氏を王妃にしようとする老論派。両方を牽制するためなのですね。
淑嬪崔氏はもともと生まれの身分が低かったので王妃候補にすらなってません。淑嬪崔氏の息子の延礽君を世子にしようとしている老論派でも、淑嬪崔氏を王妃にしようとは考えていなかったのです。
「禧嬪張氏は賤民出身なのに王妃になったではないか」と言われることはありますが誤りです。禧嬪張氏は両班と常人(庶民)の中間になる中人の出身なんですね。両班、中人、常人は良民とよばれます。良民と賤民では大きな違いです。
禧嬪張氏を王妃にしたときは粛宗にとっても息子を世子にする大義名分がありました。でも既に世子がいる状態では、息子のいる側室を正室にする意味はありません。粛宗は延礽君を新しい世子にする考えはなかったのです。
淑嬪崔氏がどのように思っていたのかは分かりませんが。どう考えても淑嬪崔氏が王妃になることはあり得なかったのです。
気苦労の多かった淑嬪崔氏
身分制度の厳しい李氏朝鮮では高い地位になっても生まれで差別を受けることがよくあります。身分が低かった淑嬪崔氏は側室になっても常に周囲の人々に心配りをしていました。禧嬪や他の側室に対しても穏やかな言葉遣いで気を使っていたといいます。粛宗が見ても気苦労していると感じるほどだったといいます。
仁顕王后やその後に王妃になった仁元王后はそんな淑嬪崔氏の理解者でした。周囲の者が淑嬪崔氏を悪く言うと、王妃はその者たちを叱ったといわれます。
まとめ
歴史上の解釈では淑嬪崔氏は西人派の操り人形のような存在でした。西人派の指示で禧嬪張氏たちを陥れる発言をします。
そんな解釈をうちこわしたのが「トンイ」でした。自主性があって正義感が強い女性として描かれ人気を集めました。
そうなると「いやいやそうじゃない、本当は悪女なんだ」と反発する意見も出てきます。まさに「チャンオクチョン・愛に生きる」の小悪魔的な姿はそんな解釈でつくられました。
西人派の指示だったにしろ自分で考えたにしろ。身分の低い彼女が自分と息子が生き残るために、宮中で味方を作り生き延びるのは並大抵のことではありません。したたかで頭のよい女性だったのは間違いないでしょう。
テレビドラマの淑嬪崔氏
朝鮮王朝五百年 仁顕王后 1988年 MBC 演:キョン・ミリ
妖婦 張禧嬪 1995年 SBS 演:ナム・ジュヒ
大王の道 1998年 MBC 演:キム・ヨンエ
張禧嬪-チャン・ヒビン 2003年 KBS 演:パク・イェジン
トンイ 2010年 MBC 演:ハン・ヒョジュ
チャン・オクチョン-愛に生きる 2013年、SBS 演:ハン・スンヨン
テバク〜運命の瞬間(とき)〜 2016年 SBS 演:ユン・ジンソ
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