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光海君(クァンヘグン)・クーデターで王位を失った王の挫折と実績

1 李氏朝鮮の国王

李氏朝鮮王朝には王位を奪われた王が二人います。燕山君と光海君です。ふたりとも暴君だといわれます。しかし光海君については、暴君と言われるほど酷い王様ではなかった。という意見もあります。確かに反対勢力や王子を処刑したり大妃を廃して幽閉したりと酷いこともおこなってます。

光海君(クァンヘグン)は本当に暴君だったの?

その一方で、戦争で荒れ果てた国を立て直して、新たな戦争に巻き込まれないように努力しました。光海君の王としての実績と、重臣たちの起こしたクーデターで王位を失ったあとについて紹介します。

 

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光海君の王としての実績

国力回復への努力

反対勢力を処分する一方で光海君は戦争で荒れ果てた国内の復興を行いました。

1608年には大同法を実行。年貢はそれまで労役や特産物で治めていました。土地を持つ者から一定の割合で米を治めさせるしくみに変えようとしたのです。実行できたのは朝鮮の一部の地域でしたが、安定して税収が見込めるようになりました。この制度は両班の反発が大きく仁祖の時代に廃止になります。孝宗の時代に復活。粛宗の時代に全国に広がります。

量田事業を行い荒れ果てた国土を測量し直して税がどのくらい入るのか調べました(日本の検地みたいなもの)。

壊された城、宮殿を修復。燃えてしまった戸籍などの書類を復元しました。

ホ・ギュンの「洪吉童伝」、許浚(ホ・ジュン)の「東医宝鑑」などもこの時期に完成しました。

しかし城や宮殿の修復のため多くの土木工事をおこなったため、作業に駆り出される民衆の不満は高まっていきました。重臣たちの腐敗も重なり、壬辰戦争で築いた民衆からの支持は少しずつ失っていきました。

現実的な外交政策

日本との国交回復

1609年。王になった翌年には江戸幕府の求めに応じて日本との国交を回復しました。朝鮮国内には日本との国交回復に反対する意見もありましたが、日本との貿易が再開されました。

力を付けていた女真族

朝鮮と明が日本と戦っている時期の話になりますが。満州では女真族が力をつけていました。1616年までにヌルハチは女真族をまとめてアイシン国(後金)を建国しました。

ところが明は日本との戦いに精一杯だったで女真族にかまっている余裕はありませんでした。国内でも反乱が起こります。気がつけば女真族は明に対抗できる勢力になっていました。日本との戦いで消耗した明には後金を倒す力は残っていませんでした。

明と後金の間で生き残り作戦

1619年。後金は明を攻撃しました。劣勢になった明は朝鮮に援軍を求めました。光海君は「明は後金には勝てないだろう」と考えます。不利な戦いに参加すれば朝鮮が危なくなります。しかし明は日本との戦いでは援軍を出しました。簡単に見捨てるわけにもいきません。そこで光海君はある作戦を考えました。

姜弘立(カン・ホンリプ)・金景瑞(キム・ギョンデ)に1万の兵をつけて派遣しました。そして不利になったら後金に投降するように命令したのです。

事実、姜弘立らは後金との戦い負けると投降しました。姜弘立は後金の捕虜となったあとも、光海君に後金の内部事情を知らせる密書を送ってきました。この戦いのあと朝鮮と後金は国交を結びました。

明は、朝鮮がわざと降伏したのではないかと疑います。朝鮮に使者を送り問い詰めましたが、光海君は事実無根と認めませんでした。

明は日本に助けを求めていた?

ちなみに、明は後金との戦いでは自分たちが衰退する原因を作った日本にも援軍を求めていました。それほど追い込まれていたようです。もちろん徳川幕府は援軍を送りませんでした。

外国はうまくかわしたのに国内で反発

清との戦いはできるだけ避け、明の追求もかわした光海君でした。ところが、問題は朝鮮国内で発生しました。国際情勢を判断できない西人派が「助けてくれた恩人を見捨てる、野蛮人にも劣る行いだ」と避難しました。明と後金にたする考えの違いもクーデターの口実になりました。李氏朝鮮が続く間、光海君は「恩人を裏切る蛮族にも劣る男」の悪評がついて回ります。

 

クーデターで王位を失う

反対勢力を次々に粛清する強引なやり方は人々の反感を買いました。国を守るために明や後金とのあいだで中立的な立場をとりました。でも、儒教的な考えの染み付いている重臣には理解できませんでした。また大妃の配位は反対勢力に大きな口実を与えました。

綾陽君(仁祖)達が決起

1623年。西人派の李貴(イ・グイ)、金瑬(キム・リュ)、崔鳴吉(チェ・ミョンギル)、金自點(キム・ジャジョム)らが反乱を起こしました。彼らは殺された綾昌君の兄・綾陽君(後の仁祖)を担いでいました。

このクーデターを朝鮮では「仁祖反正」といいます。

肝心なところで判断の失敗

光海君は最初、李 爾瞻の反乱かと勘違いしていました。また、金自點から賄賂をもらっていた金介屎は「もはやどうにもならない」と判断すると、保身に走りました。反乱があることを知りながら光海君には黙っていました。そのため、クーデターへの対応が遅れてしまいました。

捕まった光海君

綾陽君達が王宮に突入したときには光海君は王宮を脱出した後でした。でも光海君は捕らえられ、妻子ともども流刑になりました。李 爾瞻ら大北派の重臣と金介屎は捕らえれ処刑されました。40人近い大北派や官僚が処分されました。朝鮮国内で起きたクーデターでは最大規模の粛清になります。このクーデターで大北派は壊滅しました。

流刑後の光海君

光海君は妻子とともに江華島に流刑になりました。光海君は脱走を試みましたが失敗しました。息子夫妻は脱出に失敗して自害。息子の死にショックを受けた柳氏は精神的に不安定になりその年のうちに死亡しました。

光海君は済州島に移されました。

その後、後金から名を変えた清は朝鮮に攻めてきます(丁卯胡乱)。そのときの大義名分は「光海君を失脚させた仁祖は正当な後継者ではない」というものでした。

光海君自身も支持者に密書を送り復位をめざしました。

それにもかかわらず生きてる光海君に我慢がならないのは仁穆大妃です。息子と父を殺された仁穆大妃は光海君を処刑するように主張しました。

でも仁祖たちは光海君を処刑しませんでした。王を殺したという不名誉な記録は残したくなかったのでしょう。自分たちがクーデターを起こして権力の座についただけに、他の者にクーデターをおこさせる大義名分を与えるのを恐れたといわれます。

光海君は流刑先で屈辱的な扱いを受けながらも生き続けました。

1641年。66歳で死去しました。

不運な未完の王かもしれない

確かに幼い王子を殺害し大妃を廃位して幽閉したのはやりすぎでした。

でも、王子や先代王の殺害は太宗、世祖も行ってます。仁祖自身も似たようなことはしていると考えられます。

さすがに大妃を廃した王は他にいませんが、それも含めて兄や王子の殺害が光海君自身の命令だったかもはっきりとしません。

側室の子だった光海君には支持者があまりいませんでした。数少ない支持勢力の大北派の考えをある程度は尊重しなければいけないという事情もあります。重臣たちの派閥争いを止められずに自分の立場を危なくしてしまったのかもしれません。

一方で戦乱で荒れた国内の復興に力を入れました。戦争した相手の日本とも国交を回復して貿易を進めました。

自身で戦場を体験した光海君は徹底した現実主義者でした。メンツや理屈よりも何が「得」なのかを考えていたのかもしれません。

新しくできた後金の力を蛮族と侮ることなく、明を倒す可能性のある勢力と判断していました。明と後金に挟まれても、大きな戦を避けて生き残りを模索しました。李氏朝鮮史上でも稀な優れた外交センスの持ち主だったのかもしれません。

 

テレビドラマの光海君

波乱の人生を歩んだ光海君は多くのドラマに登場しています。イ・スンシンとともに壬辰倭乱(朝鮮出兵)で活躍したこと。ホ・ジュン、ホ・ギュンなど注目を集める人たちが登場する時期でもあったこと。などの理由で同時代を生きた王や王子としての登場も多いです。

女人列伝 西宮媽媽 MBC 1982年 演: イ・ドックァ
朝鮮王朝五百年 壬辰倭乱 MBC 1985年 演: ファン・チフン
朝鮮王朝五百年 暴君 光海君 MBC 1985年 演:イ・ヒド
宮廷女官キム尚宮 KBS1995年 演:キム・ギュチョル
ホジュン 宮廷医官への道 MBC 1999年 演:キム・スンス
ホ・ギュン 朝鮮王朝を揺るがした男 KBS 2000年 演:キム・ジュスン
王の女 SBS2003年 演:チソン
不滅の李舜臣 KBS 2004年 演:イ・ジュン、チュ・ミンス
快刀ホン・ギルドン KBS 2008年 演: チョ・ヒボン
タムナ  MBC 2009年 演:イ・ホソン
ホジュン 伝説の心医 MBC 2014年 演:イン・ギョジン
火の女神ジョンイ  MBC 2013年 演:ノ・ヨンハク、イ・サンユン
看書痴列伝 KBS 2014年 演:イム・ホ
王の顔  KBS 2014年 演:ホン・ウンテク、ソ・ドンヒョン、ソ・イングク
懲毖録 KBS2015年 演:ノ・ヨンハク
華政 MBC 2015年 演:チャ・スンウォン
王になった男 tvN 2019年 演:ヨ・ジング

コメント

  1. BIG-BIRD より:

    申し訳ありません。時間がかかりますか。

  2. BIG-BIRD より:

    質問です
    ①李朝時代の通貨について、調べてみると16世紀頃の朝鮮では、通貨量が極めて少なく貨幣経済の発達は極めて限定的であったと書いてありました。「ホジュン」という小説には銭貨や銀貨が使用されていたように書かれていますが、史実に反する記述でしょうか。1425年に発行された「朝鮮通宝」や1633年発行の「常平通宝」も発行量が少ないということなので、貨幣経済が浸透するのはかなり後の時代になるという記述でした。
    私の疑問は、通貨が普及してないとすれば、旅行の時に宿に泊まったり、渡船の渡し賃などは何で払ったのか。米などの穀物や布などで支払っていたということになれば、10日、20日といった長旅をする場合、自分の食料を含めて1人で運ぶのはかなり無理だと思うのですが。宿に泊まるにしても食事付きの宿などはなかったと思います。となれば、ますます無理と考えます。
    少しまとまりのない文章になりました。16世紀の朝鮮で個人単位の旅行は無理かどうか。教えてください。

    • Fumiya より:

      こんにちは。なかなか資料がなくてはっきりとしたことは言えませんが。現時点での私の考えを述べさせていただきます。
      李氏朝鮮では朝鮮では貨幣経済は発展しなかったので貨幣を持っての旅行はほぼ無理だと思います。
      米や布が取引に使われたそうですから遠方に行くときは米や布を持って行ったのでしょう。身分の高い人なら使用人を何人も使って運ばせるでしょう。1人で長期の旅行は無理でしょうね。いずれにしろ韓国の小説やドラマは歴史考証をあまりしていません。そのまま信じるのはやめたほうが良さそうです。

  3. BIG-BIRD より:

    今までの知識で、宗・祖・君の相違に関しての理解は、宗に関しては一般的な王というか、大した功績を残さなかった王。それに対して祖は、めざましい功績を残した王。君については、まさに暴君というように理解していました。
    しかし、書かれている文章を見て、祖と君について少し考えが変わりました。光海君の政策、特に外交政策に関しては優れていたんだと考えを改めました。彼もまた日本でいう田沼意次みたいに、従来の政策とは著しく先進的なものだったので、まわりに理解されず、あたかも賄賂政治の権化みたいにいわれるのと同じかもしれないですね。祖に関しては、宣祖に関しては、これという功績はなく、むしろ政治を混乱させたように思います。なぜ祖がつくのか理解に苦しみます。

    文中の流刑後の光海君ですが、《息子夫妻は脱室》とありますが、脱出ではありませんか。

    • Fumiya より:

      BIG-BIRDさん、こんにちは。
      宗・祖・君の扱いを大雑把に書くと
      宗:王として認めらた人。
      祖:王朝の始祖あるいはそれに匹敵する功績を残した王。
      君:王族(側室の息子)の称号。王としては廃位されたのでただの王族扱い。
      となるかと思います。
      宣祖が「祖」なのは「日本に攻められて滅亡しかかった王朝の危機を救った偉大な王」という扱いです。
      あくまでも朝鮮王朝の重臣の立場からみた評価なので現代人の感覚とはかなり違いますね。

      脱出についてはおっしゃるとおりです。

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