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臨海君(イメグン)・光海君の兄は嫌われ者だった?

臨海君(イメグン)は、朝鮮王朝第15代国王・光海君の実の兄です。長男でしたが素行の悪さから世子になれず。壬辰戦争中に略奪で住民の反感を買い、日本軍の捕虜となる大失態を演じました。弟・光海君の即位後には謀反の疑いをかけられ、重臣によって暗殺された生涯を解説します。

この記事でわかること

  • 臨海君が長男でありながら、素行の悪さで世子になれなかった理由
  • 壬辰戦争における地元民による反乱と日本軍(加藤清正)の捕虜になった経緯
  • 悪行を続けた臨海君が弟・光海君の即位後に謀反の疑いをかけられ殺害された最期の真相
  • ドラマと史実の臨海君の人物像のギャップ

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臨海君(イメグン)の史実プロフィール

臨海君の基本的なデータは以下の通りです。

  • 生年月日:1572年9月20日
  • 没年月日:1609年6月3日
  • :李珒(イ・ジン)
  • 称号:臨海君(イメグン)
  • :宣祖(せんそ)
  • :恭嬪金氏(きょうひんきんし)
  • :陽川許氏(ようせんきょし)
  • :光海君(こうかいくん)
  • 子供:3男1女

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第14代宣祖の時代、日本では戦国時代後期から江戸時代初期にかけて生きた人物です。


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長男でありながら世子になれなかったおいたち

幼少期と素行の悪さ

1572年、第14代国王・宣祖の長男として生まれました。母は恭嬪金氏です。彼は長男ではありましたが側室の子でした。

6歳のときに母・恭嬪金氏が亡くなります。その後、1585年に許銘(ホ・ミョン)の娘と結婚しました。

しかし、臨海君は罪のない人を殺したり民家から金目のものを略奪するなど、普段から酷い行いをしていたといいます。

こうした素行の悪さから、世子(王位継承者)をどうするかという議論が起こった際にも、長男でありながら世子には選ばれませんでした

 

壬辰戦争勃発と世子決定

1592年4月、日本と朝鮮の間で壬辰戦争(文禄の役)が始まります。日本軍の先発隊が釜山に上陸すると約200年近く大きな戦争を経験していなかった朝鮮は、あっという間に攻め込まれていきました。

事態を重く見た朝廷は4月27日には早くも遷都(都の移動)を話し合いますがまとまりません。そして翌28日にはタブーになっていた世子問題が急遽話し合われ、宣祖は光海君を世子に決定します。

このときも臨海君は世子の候補から外されてしまいました。光海君はまだ明の正式な許可を得ていませんでしたが、実質的な後継者となったのです。


歴史的な大失態:日本軍の捕虜となった臨海君

王子派遣と都の陥落

都を守る兵士が不足していたため、宣祖は王子を地方に派遣して兵を募集することにしました。こうして臨海君は咸鏡道へ、順和君は江原道へ向かうことになったのです。

臨海君は尹卓然(ユン・タクヨン)を従えて咸鏡道へ向かいます。咸鏡道は朝鮮の北東部、現在の北朝鮮と中国との国境付近にある地域です。

4月29日、宣祖はついに都を捨てて逃走、5月2日には都の漢城(ハンソン)が陥落しました。

略奪と地元民の反乱

都の状況をまだ知らない臨海君は咸鏡道に到着。後には江原道で兵集めに失敗した順和君も咸鏡道に来ました。

彼らは咸鏡道の会寧(フェリョン)にとどまります。ところが、臨海君と順和君は「自分たちは王子だ」という立場を笠に着て、なんと略奪や殺人を実行したのです。当然ながら、地元住民たちの反感は高まっていきました。

人々の不満が高まる中、日本軍が会寧に近づく知らせが届きます。すると、ついに咸鏡道の府使である鞠景仁(クク・キョンイン)らが反乱を起こし、臨海君と順和君は捕らえられてしまいました

文禄の役 宣祖 避難経路

文禄の役 宣祖 避難経路

加藤清正への引き渡し

臨海君を逃がそうとした尹卓然は、なんとか逃げ延びて兵を集め日本軍に抵抗しましたが、加藤清正(かとうきよまさ)らと戦い敗退。以後、咸鏡道で兵を集めることはできなくなります。

そして7月23日、反乱軍に囚われていた臨海君は、会寧にやってきた加藤清正ら日本軍に引き渡されたのでした。

地元の人々が、日本軍に捕虜を渡すと手厚くもてなされることを知ったため、咸鏡道では上官や役人を捕らえて日本軍に差し出す者が続出。この地域では日本軍に抵抗する者がいなくなってしまいました。

臨海君を引き渡した鞠景仁たちは会寧を支配しますが、彼らも傲慢になり住民の反感を買い、日本軍撤退後に捕らえられて処刑されています。

なぜ日本軍に協力する人がいたのか?

日本軍に協力した朝鮮人は「順倭(じゅんわ)」と呼ばれます。咸鏡道は特に大きな順倭の勢力が存在した地域でした。

その背景には、もともと咸鏡道が都から派遣された官僚と地元住民の関係がうまくいっていない土地柄だったことがあります。女真族(じょしんぞく)の居住地域に近く争いが起こりやすい土地で、左遷された人や流刑になった人が住む土地でもあったため、中央の朝廷に反感を持つ人が多かったのです。そこに臨海君たちの悪行が重なり、さらに反感を強めてしまった結果といえます。


釈放後も変わらぬ悪行と最期

和議による釈放と再度の横暴

1593年8月、臨海君たちは釜山に連れて行かれ、日本に連行されそうになりました。しかし、明の使節・沈惟敬(しんいけい)と日本の小西行長(こにしゆきなが)の会談が行われ和議が成立。臨海君と順和君は釈放されました。

しかし、このような経験をしたにもかかわらず、壬辰戦争が終わると臨海君は略奪を行ったり、罪のない人を殺すなど、横暴な行いを続けました。多くの訴えが朝廷に上がりましたが、無視されてしまいます。

光海君即位と明の反発

1608年、父である宣祖が亡くなり弟の光海君が即位します。

ところが、宗主国である明が光海君の即位を認めようとしません。長男の臨海君が生きているのに、次男の光海君が王になるのはおかしいという理由からです。そこで明から使節が来て、直接、臨海君に話を聞くことになりました。

使節に会う前、光海君から脅迫を受けた臨海君は無難な答えをして使節を帰国させます。明は臨海君の言葉を信じて、ようやく光海君の即位を認めました。

謀反の疑いと殺害

その後、「臨海君が密かに私兵を育成しているので処分すべきだ」という訴えが起こり、臨海君は監禁されます。光海君は義禁府(ぎきんふ)に調査を命じ、三司(さんし)によって何度も処刑を求める上訴が起こりましたが、光海君は処刑の命令を出しませんでした。

結果、臨海君は流刑となりましたが、流刑になったあと、死亡しました。

朝鮮王朝の記録『 光海君日記』には「臨海君は強制的に毒を飲まされ死んだ」と書かれています。また、後の仁祖(インジョ)によるクーデター後に調べられた結果、臨海君の奴婢が「臨海君は首を絞められて死んだ」と証言したといいます。これは重臣の李爾瞻(イ・イチョム)が放った刺客による犯行だとされています。 』

光海君自身は兄を殺す気はなかったようですが、重臣の李爾瞻らは、生きていれば王座を脅かす存在になると考え、排除したのかもしれません。事実、明は長男である臨海君の存在を理由になかなか光海君の王位を認めようとしませんでした。

臨海君は悲劇の被害者と言えるのかもしれませんが、普段から行いが悪かったこともその最期に災いした可能性はありますね。


テレビドラマでの臨海君

臨海君が登場する主なテレビドラマ作品は以下の通りです。

  • 『壬辰戦争』:MBC、1985年(演:チョン・ソンモ)
  • 『宮廷女官キム尚宮』:KBS、1995年(演:パク・ヨンギ)
  • 『王の女』:SBS、2003年(演:キム・ユソク)
  • 『火の女神ジョンイ』:MBC、2013年(演:イ・グァンス)
  • 『王の顔』:KBS、2014年(演:パク・ジュヒョン)
  • 『懲毖録』:KBS、2015年(演:ユン・ホンビン)
  • 『華政』:MBC、2015年(演:チェ・ジョンファン)

 

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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コメント

  1. 原田 淑子 より:

    光海君の行った仁政とは!?

    • フミヤ フミヤ より:

      こんにちは。光海君が行なった仁政には。
      大同法:税の仕組みを変え民の負担を減らしました。ただし両班の反対で京畿道だけの導入になってしまいました。
      戦乱からの復興: 戦争で荒廃した国土の復旧に尽力しました。食糧不足への対策も行いました。
      出版事業:『東医宝鑑』などの医学書などの出版を支援しました。
      中立外交:戦争で一番困るのは民ですから、戦争に巻き込まれないようにするのも為政者の大事な役目。明と後金の間でうまく立ち回りました。
      等があると思います。すべてうまくいったわけではありませんが。国を良くしようという思いは前後に即位した王に比べても高かったように思います。

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