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李芳碩・太祖の八男は世子になって芳遠たちに殺害された

3 李氏朝鮮の王子

李芳碩(イ・バンソク)は李氏朝鮮の建国者・李成桂(太祖)の八男。

朝鮮の建国後、世子(王位後継者)になりました。

ところが異母兄・芳遠(バンウォン)たちが怒って反乱を起こし、世子を廃されて殺害されてしまいます。

史実の李芳碩どんな人物だったのか紹介します。

 

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李芳碩(イ・バンソク)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1382年
没年月日:1398年

名前:李芳碩(イ・バンソク)
称号:宜安大君(ぎあんたいくん、ウィアンテグン)
父:李成桂(太祖)
母:神徳王后 康氏
同母兄:撫安大君・李芳蕃
同母姉:慶順公主

妻:柳氏(廃嬪)、沈氏

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に初代国王太祖の八男です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

高麗王朝時代の1382年。李成桂(後の太祖)と2番目の妻・康氏(後の神徳王后)の次男として生まれました。李成桂にとっては8番目の男子です。

李成桂は朝鮮半島北部の出身。地元の有力豪族の娘・韓氏と結婚していました。

都で出世した李成桂は開京(現在の開城:ケソン)の貴族の娘・康氏も妻にします。高麗は一夫多妻制。韓氏は郷妻、康氏は京妻と呼ばれました。

康氏の家は都の有力貴族なので韓氏よりも格上です。李成桂が出世するためには康氏の協力が必要でした。成桂は康氏を寵愛しました。

芳碩(バンソク)は成桂にとって末っ子。そのため成桂は芳碩を溺愛していました。

芳碩は幼いながらに温和で聡明だったといいます。

 

朝鮮建国で運命が変わる

1392年。李成桂が反乱を起こして朝鮮が建国しました。

芳碩(バンソク)には宜安大君(ウィアンテグン)の称号が与えられました。

このとき太祖・李成桂は58歳。当時としては高齢です。

建国していきなり後継者を誰にするかが問題になりました。

李成桂は寵愛していた康氏の息子を後継者にしました。康氏も自分の息子を後継者にしようとします。

世子になるもの芳遠たちが激怒

1392年9月7日(旧暦8月20日)。芳碩(バンソク)は世子になりました。11歳(数え歳)の世子です。

その決定に不満だったのが郷妻・韓氏の子どもたちです。特に怒ったのが五男の靖安大君・芳遠(バンウォン)でした。芳遠は鄭道傳(チョン・ドジョン)や南誾(ナム・ウン)のせいだと批判しました。

もともと靖安大君・芳遠は自分が開国功臣に選ばれなかったのが不満でした。さらに鄭道傳の方針にも不満でした。

鄭道傳たち重臣と、芳遠たち王子は険悪な仲になりました。

1393年。正室の柳氏が内侍の李萬と密通した。という事件がおこります。柳氏の年齢はわかりませんが、芳碩が当時12歳(数え歳)だったので、少し年上だったとしても10代前半だったでしょう。

本当に密通したかどうかはわかりません。でも李萬は処刑。柳氏は廃世子嬪になって宮中を追い出されました。

1394年。新しい世子嬪として沈氏を迎えました。

1396年10月6日(陰暦8月26日)。母の神徳王后が死去。息子たちを心配しながらの最期だったといいます。

神徳王后を失った太祖・李成桂も非常に悲しみました。

1398年(太祖7年)10月6日(旧暦8月26日)。

第一次王子の乱で命を落とす

やがて太祖・李成桂が病気で寝込むようになります。
すると、靖安大君・芳遠が挙兵。鄭道傳や南誾を殺害しました。

さらに世子・芳碩と同母兄・撫安大君は芳遠たちに捕まります。

そして芳碩は世子を廃され、同母兄弟とともに処刑されました。享年16歳。同母姉・慶順公主の夫・李済も処刑されました。

芳遠は芳碩たちを殺した理由を「神徳王后の子・撫安・宜安をかついで鄭道傳が我ら 神懿王后(韓氏)の子を殺そうとした。だから仕方なく先に殺害した」というものでした。

最愛の息子たちを殺した芳遠に太祖は非常に怒りました。でも権力はすでに芳遠たちが握っているのでどうすることもできません。太祖は引退しましたが、芳遠とは不仲が関係がつづきました。

1406年。王になった太宗・李芳遠によって昭悼君の称号が与えられました。あくまでも正妻の子とは認めない(大君ではない)という李芳遠の頑な態度が恨みの深さを物語ってます。

テレビドラマ

鄭道伝  2014年、KBS 演: パク・ジュンモク
六龍が飛ぶ 2015年、SBS 演: チョン・ユンソク
私の国 2019年、JTBC 演: イ・ヒョジェ

 

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