愛新覚羅 胤禟(いんとう)は清朝の皇子。
第4代皇帝・康熙帝の第九皇子です。九阿哥とも書きます。
西洋の文化に興味をもち、積極的に西洋文化を学んで取り入れようとしました。
康煕時代の後半におきた後継者争いでは、第八皇子(八阿哥)に味方しました。
十四阿哥とともに八阿哥を中心にした派閥「八爺党」の中心メンバーとして活動しました。
雍正帝の即位後。過酷な仕打ちをうけます。
党首の八阿哥が厳罰を受けるのはわかるとしても、どうして雍正帝は九皇子も苦しめたのでしょうか?
九阿哥 胤禟はどのような人物だったのか紹介します。
胤禟 の史実
生年月日:1683年10月17日
没年月日:1726年9月22日
享年:43
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤禟(いんとう、満洲語:インタン)→允禟→塞思黑→胤禟
称号:固山貝子
父:康煕帝(こうきてい)
母:宜(ぎ)妃 郭絡羅(ゴロロ)氏
兄弟:五皇子 胤祺、十一皇子 胤禌
正室:嫡福普・董鄂氏
側室:側福普・劉氏、郎氏、周氏、朱氏、佟氏
妾・兆佳氏、完顏氏、陳氏、赫西克氏
子供:8男6女
胤禟 が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝から5代・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
康煕帝時代の 胤禟
1683年(康煕2年)10月17日に生まれました。
父は康煕帝。
胤禟は康熙帝の第九皇子(九阿哥)です。
母は 宜(ぎ)妃 郭絡羅(ゴロロ)氏
1692年(康熙31年) 耳の感染症で高熱がでて昏迷状態になりました。カトリックの宣教師が澳門(マカオ)から北京に来ていたので治療したところ回復しました。
西洋文明に興味をもつ
このときの経験から胤禟はヨーロッパ人に友好的になります。ヨーロッパの知識や科学技術にも興味を持つようになりました。
胤禟はイエズス会宣教師と付き合い、西洋の技術を学びました。この時代はまだキリスト教は禁止されてません。康煕帝も胤禟が宣教師と会って西洋の学問や技術を学ぶのを認めていました。将来に役立ててほしいと思っていたようです。
満洲語・モンゴル語・漢語だけでなくロシア語も学びました。
金を稼いで人を動かす
胤禟は当時の王族の中でも裕福でした。手広く商売をしていたからです。天津で材木業を営み、満洲地方では薬用人参の商売をしていました。頭のいい胤禟はビジネスの才能がありました。満洲人は皇族でも商売をする人がいました。女直(女真)と呼ばれていた時代から交易は収入源のひとつだったからです。
でもそれだけではありません。
胤禟はある知事に屋敷を買い与えたこともあります。
「湖広総督」の官職を満丕という役人に銀30万両で売ったこともあります。その総督を中心にその部下も派閥の仲間にしたこともありました。
胤禟の豊富な資金力と人脈は派閥争いで大きな武器になりました。
後継者争いで八阿哥 胤禩に味方
九阿哥 胤禟(いんとう)は 兄の八阿哥 胤禩(いんし)と親しくしていました。
八阿哥 胤禩には弟の十阿哥 胤䄉(いんが)、十四阿哥 胤禵(いんてい)も親しくしていました。
八阿哥 胤禩は人付き合いがよい人でした。人付き合いにはお金も必要になります。九阿哥 胤禟は兄のためにお金を出していました。
役人に家を買い与えて派閥の一員にすることもありました。九阿哥 胤禟が集めた人びとは八阿哥 胤禩を支持する「八爺党」の一員になりました。
八阿哥 胤禩の派閥が大きくなった理由は八阿哥の人付き合いの良さと九阿哥 胤禟の資金力のおかげなのです。
胤禟本人は皇帝になるつもりはなかったようです。政治よりも金儲けが好きだったのでしょう。
八阿哥 胤禩を支持する「八爺党」は最大の派閥になりました。
(爺は地位のある男性の意味です。老人ではありません)
皇太子の廃位
1708年(康熙47年9月)康煕帝は皇太子 胤禔(いんし)の廃位を決定しました。その後、康煕帝は皇子や重臣を集めて次の皇太子を誰にしたらいいか聞きました。そのとき皇子と重臣たちはそろって八阿哥 胤禩を皇太子に推薦しました。ところが康煕帝は却下。
さらに八阿哥が皇太子を暗殺しようとしたという疑惑が持ち上がり康熙帝が激怒。
九阿哥 胤禟や十四阿哥 胤禵、大臣が康煕帝をなだめて八阿哥の幽閉だけは阻止しました。でもこの件で胤禩は康熙帝の信頼を失います。
胤禟は八阿哥 胤禩をかばって康煕帝に怒られることもありましたが、頭が良くて西洋の文化や技術を学ぶことに熱心な胤禟は康熙帝の信頼を失いませんでした。
(康熙48年) 固山貝子(グサイベイセ)になりました。
兄・胤禛が次の皇帝に決まる
1722年(康煕61年)。康熙帝が死去。
父・康煕帝のあとを継いだのは四阿哥 胤禛でした。
康煕帝の死後。兄・胤禛が皇帝になったことに納得いかず、皆が見ている前で口論になりました。
また康煕帝の葬儀の時。母の宜妃 郭絡羅氏は病気を理由に4人でかつぐ輿に乗って葬儀場に来ました。そして雍正帝の生母で皇太后の烏雅氏の前に歩いて行って傲慢な態度をとっていました。
このとき雍正帝は郭絡羅氏の従者を叱っただけでしたが、それ以来この親子に対して雍正帝は厳しい態度を取るようになります。
雍正帝の時代
雍正帝は兄弟たちに「胤」の字を使うのを禁止しました。同母弟の胤禟も例外ではありません。允禟(いんとう)と名乗ることになります。
西寧に派遣
1723年(雍正元年)。雍正帝は大臣と相談して允禟を 西寧(現在の青海省 西寧市)に送ることにしました。中国の北西に位置するこの場所はウイグルやチベット、モンゴルと隣り合う場所でした。胤禟は理由をつけて派遣を遅らすように言いましたが、雍正帝は許しませんでした。
西寧では年羹堯(ねん こうぎょう)の監督下におかれました。雍正帝の目的は遠くに送って八阿哥 胤禩たちと連絡を断つことでした。
1724年(雍正2年)。宗人府(皇族を監視する役所)から「許可なく河州に部下を送り込み、牧草地の調査をして草を買ったのは違法だ」と注意を受けます。
1725年(雍正3年)。胤禟に仕える者が西寧でトラブルを起こしました。それを調べるために楚宗という使者が派遣されました。ところが楚宗が到着しても胤禟は会おうとしません。そこで楚宗は書面で質問します。すると胤禟は「私は何でもかんでも非難される。何を言えばいいのか?私はもう出家したい」と返事しました。それを知った雍正帝は書面で胤禟を叱責しました。
胤禟はまた八阿哥 胤禩、允䄉たちとの派閥を作りました。
胤禟は北京の十阿哥 胤䄉に手紙を送りました。その手紙が雍正帝のもとに渡りました。その手紙には「すでに機会を失ってこんなになってしまっては、後悔してはもう間に合わない」と書かれていました。この文章は受け止め方によっては何とでも解釈できます。
雍正帝は胤禟たちが何か企んでいたのではないか?と思いました。
そのことがあって以来。胤禟は暗号を使って北京の家族や仲間と連絡をとることにしました。
アルファベットで満洲語を表現
胤禟はかつてロシア語を習っていました。また宣教師とも交流がありました。ポルトガルの宣教師ムーラムは胤禟といっしょに西寧に来ていたほどです。
そこでラテン語のアルファベットを使って満洲語を表現する方法を発明。その暗号を使って北京にいる家族や十四阿哥 胤禵との連絡に使いました。
ムーラムは人目につかないように夜に胤禟の家に行き、手紙を受け取ると服に縫い付けて隠しました。そして北京にいる胤禟との連絡役になりました。
1726年(雍正4年)。北京にいる息子の弘晸が出した手紙が城門の役人に見つかりました。北京にいた宣教師を呼び出して手紙を見せましたが何を書いているのかわりません。弘晸は胤禟が作った文字だと言いました。
雍正帝は「私は手紙のやり取りを禁止したわけではない。だが暗号で手紙を書いて着物に縫い込むとは敵国のスパイがすることだ。何か企んでいるに違いない。九阿哥づきの宦官が大金を持っているそうだがその出処も調べよ」
そして調査が行われ兵糧の横領がわかりました。
允禟は保定府に投獄されました。長男の弘晸も投獄されました。
1726年(雍正4年正月)。貝子(ベイセ)の爵位を剥奪されます。さらに皇籍からも除籍になりました。
5月。允禟は塞思黑(サスヘ)と改名させられました。満洲語で「豚」あるいは「迷惑な人」「震える」を意味するといわれます。以前、西寧に送られた時「遠いほど私には好都合だ」と発言していたのを問題視されて。より都に近い保定府(現在の河北省)に移され投獄されました。
6月。大臣たちは28の罪で允禟を弾劾し、死刑を求めました。
1726年(雍正4年8月)。允禟は保定府の獄中で腹部の病気で死亡しました。
1735年(乾隆20年) 乾隆帝が即位。
1778年。乾隆帝によって名前が「胤禟」に戻され皇室の一員に復帰しました。息子の弘晸も釈放されました。
胤禟がたんに八皇子の支持者だったらここまでひどい扱いは受けなかったかもしれません。
雍正帝母子に対する態度やお金がらみの問題も雍正帝に嫌われた原因です。
テレビドラマ
宮廷女官 若曦 2011、中国 演:林更新
宮廷の茗薇 2019、中国 演:辛雲来
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