第一皇子 胤禔は 康煕帝を激怒させて自宅軟禁にされてしまった

康煕帝の皇子1.8.1 清の皇帝・男の皇族

胤禔は清朝の皇族です。

第4代皇帝・康煕帝の長男です。

母が側室だったので皇太子にはなれませんでした。戦で手柄をたて重臣たちからの評判もよかったのですが。

母の地位が低いせいか自分が次の皇帝になるのを諦め、八皇子・胤禩と共謀して皇太子を陥れ、胤禩に皇位を継がせようとしました。そのため康煕帝によって爵位を取り上げられて自宅軟禁になってしまいます。

履郡王・胤禔の史実

いつの時代の人?

生年月日:1672年3月12日
没年月日:1735年1月7日
享年:63

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤禔(いんし)→ 允禔(いんし)
称号:多羅直郡王
旗籍:鑲藍旗
父:康煕帝(こうきてい)
母:恵妃 烏拉那拉(ウラナラ)氏、那拉氏とも書きます。

夫人:伊爾根覚羅氏。
継夫人:張佳氏
妾:11人

子:15男14女

胤禔(いんし)が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1672年3月12日(康煕11年)。誕生しました。

父は4代皇帝・乾隆帝。

母は庶妃・那拉氏。

長男なので「大阿哥」と呼ばます。

大阿哥とも呼ばれます。阿哥(アグ)は満洲語で王子・息子の意味。清朝では「皇子」の意味で使われました。大阿哥は一番最初に生まれた皇子。という意味です。日本語版では「第一皇子」と訳されることが多いです。

胤禔が生まれる前に4人の男子がいましたが若くして死亡しました。成人した男子では胤禔が一番年上。

慣習的に「大阿哥=第一皇子」と呼ばれます。

慣習に従って幼年期は宮殿の外で育てられました。胤禔が育てられたのは成妃の叔伯で内務府の総管を務める噶祿家です。

1677年(康煕16年)。母・那拉氏は「恵妃」になりました。

でも胤禔の母は側室。胤禔は嫡男ではありません。

康煕帝は仁孝皇后皇后から生まれた二阿哥 胤礽を皇太子にしました。

でも胤禔は後継者の座を諦められません。

胤禔は父親から高く評価されようと幼い頃から詩を読み、武術を学びました。

康煕帝も胤禔の働きに期待していました。

異民族との戦いで存在感をみせる

1690年(康煕29年)。オイラト系騎馬民族ジュンガルのガルダン・ハーンとの戦いが起こりました。康煕帝は、裕親王・福全(順治帝の次男、康煕帝の兄)を総大将、大阿哥・胤禔を副将にして出兵させました。ところが2人の意見が合わず、胤禔は呼び戻されました。

1696年(康熙35年)。康熙帝は3個軍団を率いてガルダン・ハーンとの戦いに挑みました。允禔も出陣しました。この戦いで清軍はジュンガルに勝利しました。ガルダン・ハーンは逃亡しましたが途中で病死しました。

この戦いで胤禔の評判が上がりました。

一方。ちやほやされた皇太子の胤礽には横暴なところがあり、康煕帝は不満でした。康煕帝は成人した皇子たちを役職につけ皇太子をサポートさせようとしました。

1698年(康熙37年)。胤禔は 直郡王 の称号を与えられました。

胤禔は皇太子・胤礽をサポートするどころか、これをチャンスと捕らえ王位後継者になるための活動を活発にしました。

胤禔には朝廷の実力者。納蘭 明珠が味方になっていました。

皇太子を支持していた索額圖(ソンゴトゥ)は明珠の政敵でもあったので利害が一致していました。

明珠は皇太子の行いを批判、皇太子の評判を落としました。

1708年(康熙47年4月)。納蘭 明珠が死亡。胤禔は有力な支持者を失ってしまいます。

皇太子 胤禛を追い落として軟禁される

1708年(康熙47年)。

康煕帝は皇子たちと狩りを行いました。

胤禔は八阿哥・胤禩と協力して皇太子を告発しました。王族や大臣を苦しめモンゴルからの貢物を不当に奪っていると訴えました。

胤禔が報告したのはほとんど作り話ですが康煕帝は信じました。

胤禔は康煕帝に胤禛が謀反を企んでいると報告。日頃の胤禛の行動の悪さに悩んでいた康煕帝は胤禛に襲われるのではないかと不安になります。

1708年(康熙47年9月)。康煕帝は胤禛を廃位させ監禁しました。胤禔は康煕帝から胤禛の監視を任されます。

胤禔はついに時が来たと考え。康煕帝に「廃太子は卑劣な行いをしてきました。八阿哥(胤禩)を顔相鑑定士の張明徳にみせたところ八阿哥(胤禩)は大変高貴な相ということです。廃太子を処刑しましょう。父の手をわずらわせるまでもありません」と進言しました。

さすがに康煕帝は「兄弟を殺そう」と言う胤禔に激怒しました。

逆に康煕帝は「胤禔と胤禩こそが反逆者」だと考えます。

さらに第三皇子・胤祉から「胤禔はラマ(僧侶)を雇って胤禛を呪った」と訴えられます。

康煕帝は第一皇子・胤禔と第八皇子・胤禩には野心がある「2人が胤禛を陥れたのだ」と考えました。

康煕帝は胤禔の爵位を取り上げ自宅軟禁にしました。八皇子・胤禩も監禁されました。

胤禛が皇太子に復位しました。

その後。胤禛は再び皇太子を廃位されます。

その後は皇太子を決めませんでした。

雍正帝の時代も自宅軟禁が続く

1722年(康煕帝61年)。康煕帝が死去。第四皇子・胤禛が皇帝になりました。

胤禛が皇帝になったので兄弟たちは名前に「胤」の文字が使えなくなりました。胤禔は「允禔」と名前を変えさせられます。

さらに雍正帝の時代になっても自宅軟禁は続きました。

1735年(雍正12年)。軟禁中の自宅で死去。享年63。

TVドラマ

宮廷女官 若曦 2011、中国 演:楊曉波
花散る宮廷の女たち 〜愛と裏切りの生涯〜 2017、中国 演:邢 城
宮廷の茗薇 2019、中国 演:倪菘陽

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