PR

朝鮮王朝の暴君ランキング:燕山君・光海君・太宗・世祖は何をした?

「朝鮮王朝の暴君」と聞くとドラマの印象だけで名前が決まりがちです。
でも本当に知りたいのは、「誰が何をして、どんな被害が出たのか」ではないでしょうか?

この記事ではドラマや勝った側の宣伝、後世のレッテル貼りからいったん離れ。在任中に起きた事件と処分の中身を以下の基準で考えました。

①根拠が弱いのに粛清する
②反対意見を言わせない
③国より個人の欲を優先する
④暴力が続いて被害が広がる

この基準で見ると暴君と呼ばれる理由がよく分かります。

それでは朝鮮王朝の暴君たちを紹介しましょう。

 

この記事で分かること

  • 暴君ランキング(1位 燕山君/2位 光海君/3位 太宗/4位 世祖)
  • 燕山君が反対を言えない国にした経緯
  • 光海君が身内の処分で評価を落とした経緯
  • 世祖が端宗から王位を奪った後に何が起きたか
  • 太宗が王位争いで何をしたか

 

PR

朝鮮の暴君ランキング

暴君ランキング ワースト4

早速、朝鮮王の暴君ランキングを紹介します。朝鮮王朝の暴君ワースト4は以下の王たちです。

 

 順位
 1位  燕山君(ヨンサングン)
 2位  世祖(セジョ)
 3位  光海君(クァンヘグン)
 4位  太宗(テジョン)

 

どの王も強引な面はありますよね。なぜこのような順番になったと思いますか?この記事では以下の基準で暴君かどうかを判断しました。

 

「暴君」とは

歴史書やドラマでは主観的な評価で語られがちな「暴君」ですが、この記事では以下の項目を暴君の理由とします。

  1. ルールを無視した処罰
    ろくな罪の調査もせず処刑・処罰。勝手な理由で罰の重さを変える。
  2. 恐怖で黙らせる
    王の気にいらない諫言(アドバイス)をした臣下や反対意見を言った者を処刑・処罰。反対できなくする。
  3. 私怨や欲で国を動かす
    国の平和や暮らしの安定よりも個人の復讐や贅沢・私欲のために権力を振るう。
  4. 乱暴が止まらず被害拡大
    上記の処罰や権力乱用が一時的ではなく何度も起きる。

 

暴君の評価表

以上の条件で判断すると以下のような評価になります。

評価:◎…強い/○…当てはまる/△…一部

①ルール無視 ②恐怖で黙らせる ③私怨や欲で国を動かす ④乱暴が止まらず被害拡大
燕山君
世祖
光海君
太宗 ○〜◎

 

次に1位の燕山君からそれぞれの王がどんな暴君だったのかを紹介します。

 

PR

1位 燕山君|復讐と遊興で国が疲弊

10代国王・燕山君(ヨンサングン)は朝鮮王朝史上、最悪の暴君として有名な人物。彼の治世は個人的な復讐心と底なしの遊びによって国そのものが疲弊していく時代でした。

1498年:戊午士禍(ムオサファ)言葉が命取りになる時代

始まりは歴史の記録でした。そこに書かれた過去の王への批判を「現政権への反逆だ」と断罪。関係者を処罰しただけでなく、すでに死んでいる人の墓を掘り返して首をはねる「剖棺斬屍(プグァンチャムシ)」という恐ろしい刑まで行いました。

これ以降、王に意見を言える自由な空気は完全に消え去りました。

 

1504年:甲子士禍(カプチャサファ)復讐の連鎖

燕山君は実の母(廃妃・尹氏)が死に追いやられた経緯を知り、狂気に取り憑かれます。母の死に関わった人物はもちろん、その家族や親族までを徹底的に処刑。死者は100人を超え、政治の場からはまともな人材がいなくなってしまいました。

ブレーキの壊れた権力

政敵を消した燕山君は王の行動に意見する機関(司諫院など)を廃止し、学問の場もストップさせました。

「うるさいことを言う奴は誰もいない」状態を作り上げ独裁体制を完成させたのです。

欲望のための「動員」

彼は全国から美しい女性(妓生など)を強制的に集め、宮中で連日のように宴会を開きました。

その数は千人を超えたと言われ、平民の妻であっても容姿が優れていれば無理やり奪い取るという王としての品位を疑うような振る舞いが記録に残っています。

民の生活を奪う「わがまま」

自分の狩りや遊びの邪魔になるという理由で、都にある民家を次々と取り壊させました。住む場所を失った人々を無理やり移住させ、立ち入り禁止区域を広げるなど、民の暮らしよりも自分の娯楽を優先させたのです。

文字の弾圧:ハングル禁止令

自分を批判する張り紙が出されたことに腹を立て、「今後、諺文(ハングル)を教えることも、学ぶことも、使うことも許さない」という命令を出しました。

「民が文字を知ると、ろくなことを言わない」と考え、情報の流通さえも封じ込めようとしたのです。

 

まとめ:燕山君が最悪の暴君の理由

ここで最初に決めた4つの暴君の条件に当てはめてみましょう。

  • ① ルールを無視した処罰:◎

    1498年「戊午士禍」で多数が処罰され、1504年「甲子士禍」ではさらに大規模な処刑・連座が起きました。

  • ② 恐怖で黙らせる:◎

    諫言や講義の仕組み(司諫院・経筵など)を止め、反対が届きにくい状態を作りました。

  • ③ 私怨や欲で国を動かす:◎

    宴会・女遊び・狩りを優先し、民家の撤去や立入禁止の拡大など、暮らしを直撃する命令が出ています。

  • ④ 乱暴が止まらず被害拡大:◎

    粛清が一度で終わらず、1504年以降も統制と私的行為が重なり、最終的に1506年に廃位されました。

以上、全ての項目で明らかに該当するうえに短い一時期ではなく、ある程度まとまった期間続いたため、この記事では「朝鮮の暴君ランキング」1位としています。

燕山君の詳しい紹介はこちら
燕山君(ヨンサングン)朝鮮最悪の暴君と呼ばれた理由と最後

 

2位 世祖|正当な手順を破壊した非道の王

世祖(セジョ)は朝鮮王朝第7代国王(在位1455〜1468)です。4代世宗の息子。先代・文宗の弟であり、12歳で即位した第6代国王・端宗の叔父です。

彼が「暴君」と評される最大の要因は王位を得るまでの凄惨なやり方と、王位を維持するための粛清にあります。

 

1453年:クーデター「癸酉靖難(ケユジョンナン)」

端宗を支えていた重臣、金宗瑞(キム・ジョンソ)や黄甫仁(ファンボイン)らを突如襲撃し、殺害しました。特に金宗瑞に対しては、世祖自らその自宅を襲い、息子共々殺害するという強硬な手段をとっています。これにより宮廷内には「逆らえば死」という恐怖政治が浸透しました。

1455年:強制的な王位継承

実権を完全に掌握した世祖は端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら即位しました。正当な功績や後継指名によるものではなく、武力で奪い取った王位だったため、当時の社会で激しい批判を浴びることになりました。

 

1456年:復位計画の阻止と「死六臣」の処刑

端宗を王位に戻そうとする計画が発覚すると、世祖は関係者を容赦なく処罰しました。成三問(ソン・サムムン)や朴彭年(パク・ペンニョン)ら、忠義を貫こうとした文臣たちは激しい拷問の末に処刑・獄死に追い込まれました。この事件では、首謀者だけでなくその一族や周囲の多くの人々が連座して処罰されました。

1457年:端宗の流刑と死

反対運動の火種を消すため世祖は端宗を「魯山君(ノサングン)」へと降格させ、江原道の寧越へ流刑に処しました。王としての身分を剥奪された端宗は、その後間もなく流刑地で賜死となりました。またその前には端宗の復位を目指していた錦城大君が賜死となっています。

なぜ世祖は王位を奪ったのか

世祖が王位を簒奪した当時、国政が混乱していたわけではありません。亡き文宗が信頼した大臣たちが幼い端宗を支え政治体制は安定していました。

それでも世祖が強硬手段に出たのは「国を立て直す」といった大義名分ではなく、自身の権力欲が動機でした。

世祖は王を補佐する一王族という立場では満足できず、権力者になる道を選びました。その結果、多くの血を流す事になってしまいます。

 

まとめ

ここで4つの暴君の条件に当てはめてみましょう。

  1. ルールを無視した処罰(評価:◎)
    当てはまります。 証拠もなしに金宗瑞ら大臣を謀反人と決めつけ殺害しました。
    端宗は「関与の疑い」だけで魯山君へ降格→永月へ流刑。さらに死に追いやられました。世祖の即位そのものがルール無視。
  2.  恐怖で黙らせる(評価:◎)
    当てはまります。 反対意見を言うだけで命を失う形になりました。
  3. 私怨や欲で国を動かす(評価:○)
    ある程度当てはまります。 ぜいたく目的の乱用はしてませんが。朝鮮は国政は王と重臣が行い、王族は王を補佐する立場。正統後継者の甥から王位を奪うのは世祖の権力欲でしかありません。
  4.  乱暴が止まらず被害拡大(評価:△)
    一部あてはまります。 世祖への反発は大きく反対や端宗の復位運動への粛清など処罰が続きましたが。即位後の数年に集中しています。

結論:評価は「◎◎○△」。

世祖は燕山君ほどではありませんが、暴君としての条件を備えています。
一番の理由は王位を取る流れの中で、反対派を殺害・拷問・処刑し、端宗を降格して処刑。反対派に対する過酷な処分などが重なったためです。

世祖は王位を強引に奪う方法で王座につきました。そのため反発も大きくなり、粛清の連鎖へと繋がっていきます。世祖は即位を決めた時点で暴君への道は決まっていたのかもしれません。

次は、3位の光海君について、
「どこまでが本人の行動で、どこからが反正後の悪評なのか」という点を見ていきます。

世祖の詳しい紹介はこちら
世祖 の家系図と最後・王座を甥から奪った男の生涯とは

 

3位 光海君:立場を守るため過剰に粛清

光海君(在位1608〜1623)は行政や外交の実績も多い一方、身内・外戚・反対派への過酷な処分宮殿再建をめぐる強行が後世に「暴君」とされる根拠になりました。

 

癸丑獄事(1613):永昌大君事件

宣祖の正妃・仁穆大妃の子、永昌大君(ヨンチャンテグン)は宣祖時代には跡継ぎの候補にもなった人物。そのため光海君と彼らの支持者は永昌大君を警戒していました。

即位直後には宣祖から永昌大君の保護を頼まれていた柳永慶らを処刑。

1613年には金悌男ら外戚と西人派数十人を永昌大君を王にしようとした罪で捕らえ。さらに永昌大君彼を流罪にしました。

  • 金悌男(仁穆大妃の父)は賜死

  • 永昌大君は庶人に落とされて流刑、翌年江華島で死亡(殺害)。王命で出された判決であり、政争というより身内粛清といえる事件でした。

 

仁穆大妃の幽閉(1618)

継母であり、形式上は宣祖の死後に光海君の即位を告げた人物。
しかし1618年、仁穆大妃は 西宮(ソグン)と呼ばれ娘の貞明公主とともに昌徳宮の奥に幽閉されます。

 

兄・臨海君、晋陵君の粛清

即位直後の1608年兄の臨海君を喬桐島へ流刑にします。イ・イチョムらは処刑を求めますが光海君は拒否。その間に臨海君は急死しました。王位を脅かす存在を早期に排除したと見られています。
1613年には王族の晋陵君が謀反の疑いで処刑されています。

 

宮殿再建と新宮建設(1610〜1618)

壬辰戦争で宮殿が焼失していたため、昌徳宮の再建は当然の国家事業でした。ところが光海君は同時に仁慶宮、慶徳宮(のちの慶熙宮)という新しい宮殿まで並行して建て始め、人手と費用が膨れ上がります。官僚の反対を押し切って工事を急いだ結果「民の負担を顧みない王」と批判されました。

 

外交問題は「反正」の口実にすぎない

明と後金の狭間で中立外交を取ったことは、後の仁祖反正(クーデター)で「不忠」と非難されました。しかし当時は兵力も財政も疲弊しており、現実的な選択でもありました。したがって、現代人からみて暴君と呼ばれる理由とは違う問題です。

 

まとめ:光海君は暴君と言えるか

光海君を4つの暴君の条件に当てはめてみましょう。

① ルールを無視した処罰

1613年の事件では密告をきっかけに取り調べが広がり、王族・外戚へ処分が進みます。臨海君や永昌大君の隔離と死、仁穆大妃の幽閉もルール無視のやりすぎな面はあります。

→評価:◎(重い処分になりがち)

② 恐怖で黙らせる(反対を言いにくい状態を作る)

王族の流罪・死、外戚の賜死、そして大妃の幽閉は反対派にとって「声を上げたら同じ目に遭う」と感じやすい出来事です。
→評価:◯

③ 私怨や欲で国を動かす(国より個人の都合が前に出る)

宮殿工事は復旧だけでなく、緊急性の低い新宮殿を「運気」を理由に建設。必要性よりも王の好み優先されたといえます。
→評価:△(復興は必要だが私的な理由が混じる)

④ 乱暴が止まらず被害拡大(1回で終わらない)

即位直後の1608〜09に臨海君、1613〜14に晋陵君、永昌大君と外戚、1618に大妃の問題と王族辛味の処分と外戚・臣下たちの粛清が連続します。
→評価:◎

結論:評価は「◎○△◎」。

まとめ

光海君時代の粛清は大北派が主導。光海君自身は王族の極刑は避けようとした面はあります。でも王族重臣の処罰は王の許可を得て行われます。光海君は哲宗のように操り人形だったわけではありません。

自分を支持する派閥が少ないため、味方の意見は断りにくいという事情はあったでしょう。臣下の上奏の形で王の意見を通すのは常套手段です。兄や永昌大君には情けもあったようですが、臣下の処罰に対しては冷淡。

結果的に光海君の命令で王族の流罪や大妃の幽閉や重臣の粛清が行われました。ここまで続くと暴君と言われても否定しにくいです。

光海君の詳しい紹介はこちら
光海君(クァンヘグン)は暴君だったの?その生涯と家系図

 

4位 太宗:味方にも容赦がない「強権の王」

朝鮮王朝の礎を築いた太宗(テジョン) 李芳遠(イ・バンウォン)も「暴君」とよぶにふさわしい一面をもっています。

彼は自分の王座と国の未来を守るためなら、身内であっても容赦なく排除したからです。その決断はまるで病んだ枝を切り落とす庭師のよう。切り落とす対象が親族や恩人にまで及んだことが、冷酷なイメージを強くしています。

 

骨肉の争い「王子の乱」

太宗の歩みは兄弟同士の政変から始まりました。

  • 第一次王子の乱(1398年)

    父の太祖が 自分ではなく幼い末っ子を次の王に指名したことに激怒。軍を動かしてライバルの鄭道伝(チョン・ドジョン)や、腹違いの弟たちを殺害しました。

  • 第二次王子の乱(1400年)

    今度は兄が起こした反乱を制圧し、名実ともに国のトップへと駆け上がります。

 

権力を一人に集中させるための「掃除」

王になってからも彼の「排除」は止まりませんでした。

特に徹底していたのが個人の軍隊を解散させたことです。武力を持つ有力者を排除し軍をすべて国家の管理下に置きました。この改革に不満を漏らした功労者たちは、即座に追放されたり処分されたりしました。

 

「妻の実家」への容赦なさ

太宗の冷徹さが際立つのが妻(元敬王后)の兄弟、つまり義理の弟たちへの仕打ちです。

「王の親戚が権力を持つと国が乱れる」と考えた彼は妻の兄弟4人を次々と処刑しました。流罪にしたあとに死に追いやるなど、極めて計画的です。

太宗は文官でしたから、太祖の挙兵に参加せず兵たちと共に戦った経験はありません。そんな太宗にとって閔家の戦力や人脈は心強い味方でした。でも自分が王になった途端に不用として切り捨てました。共に苦労して王座を勝ち取った妻からすればやりきれない思いだったでしょう。

 

引退してからも続いた処刑

太宗は息子の世宗に王位を譲ったあとも、裏で実権を握り続けました。

そして世宗の妻の父親、つまり新しい王の義父までもがターゲットになります。逮捕して死を命じるという徹底ぶりでした。世宗が自由に政治を行えるよう「障害」となる芽をすべて摘み取っておこうとしたのです。

でもそれは同時に世宗の味方を消したことにもなりました。世宗は王権を抑え込もうとする儒学者たちとの調整に苦労、やりたい政策が実現できなかった部分もあります。

 

まとめ:太宗は本当に「暴君」なのか

4つの基準にもとづいて太宗 李芳遠の暴君としての側面をみてみましょう。

 ① ルールを無視した処罰(評価:○)

「法」という形は使いますがその中身はかなり強引です。妻の兄弟を根拠もなく「不忠」というあいまいな罪で死に追いやり、息子の義父・沈温は本人の過失ではなく親族の発言を理由に巻き添えで処刑しました。

 ② 恐怖で黙らせる(評価:○)

出発点からして政敵や幼い異母弟を殺害する「王子の乱」という武力行使でした。王位継承には貪欲で、権力維持のためには容赦ありませんが。狙われるターゲットが決まっている分、誰もが萎縮という状況とまでは言えません。世祖に比べ太宗の即位への反発が小さいのも異論が起きにくい要素。

 ③ 私怨や欲で国を動かす(評価:○)

贅沢にふけるような私欲ではありませんが「自分の権力を揺るぎないものにしたい」という執着は異常なほどでした。鄭道伝が掲げた「私兵解体」に反対して彼を殺したものの自分が王になると同じ政策を強行。そんなところにも彼の「自分勝手な権力欲」が透けて見えます。

 ④ 処罰が止まらず被害が拡大(評価:◎)

一度の政変で終わりませんでした。1398年の第一次王子の乱から1418年の譲位後の処刑まで、20年以上にわたって「邪魔者の掃除」を繰り返しました。身内から外戚、功臣へとターゲットを変えながら被害を広げ続けたと言わざるを得ません。

結論:評価は「○○○◎」。

 

結論

太宗は「法や正義」よりも「自分の支配」を優先、それを邪魔する者はたとえ家族でも迷わず消し去る計画的で冷酷な支配者でした。

太宗は国家の土台を作った「有能な政治家」なのは確かです。でも彼が作った平和はあまりにも多くの犠牲の上に成り立つ、危ういバランスの上にありました。

太宗が目指した強い王を目指した先にあるのは孤独な王が臣下の圧力にさらされるという皮肉な結果でした。

太宗の詳しい紹介はこちら
太宗 李芳遠(イバンウォン)の家系図と生涯・暴君?

 

 

まとめ:4人を比べると何が違う?

歴史に名を残す「4人の怖い王様」を並べてみると、それぞれに個性の違う「怖さ」が見えてきます。最後に彼らの特徴をわかりやすく整理してみましょう。

1位 燕山君:暴走する感情と欲望

4人の中で唯一、「国を良くしよう」という視点が欠落していた王です。

  • 怖さの質: 予測不能な狂気。

  • 特徴: 自分の恨みを晴らし、欲望を満たすためだけに権力を使いました。反対する者は片っ端から消し「文字」さえも封じ込めた。ブレーキの壊れた暴走トラックのような王です。

 

2位 世祖:手段を選ばない野心家

幼い甥から力ずくで王座を奪い取った「結果こそすべて」と割り切った王様です。

  • 怖さの質: 執着心と冷酷さ。

  • 特徴: 自分が王になる正当性がないことを自覚していたからこそ、刃向かう者には徹底的な制裁を加えました。一度奪ったものを守り抜くためなら身内であっても犠牲にする。その執念が今もなお批判の対象となっています。

 

3位 光海君:政争の迷路に迷い込んだ孤独

彼は決して遊び呆けたわけではなく、外交などでは優れた感覚を持っていました。しかしドロドロの派閥争いの中で味方を守るために敵を消しすぎたのが運の尽きでした。

  • 怖さの質: 疑心暗鬼と孤立。

  • 特徴: 自分の立場を守るために、継母を幽閉し弟を死に追いやる。その決断によって「暴君」のレッテルを貼られてしまいました。

 

4位 太宗:計算し尽くされた「必要悪」

王位につくまでのはなまぐさいですが、後半は一貫して「王権を強くして、国を安定させる」という目的のために動いていました。

  • 怖さの質: 徹底した合理主義。

  • 特徴: 楽しみのために人を殺すことはありません。「この芽を摘んでおけば将来の反乱は防げる」という冷徹な計算に基づいて動いていました。そのため現代では「怖いけれど、必要な基礎を作った王」という評価も根強くあります。

こうして見ると同じ「暴君」という言葉で括られていても、その中身は全く違います。私たちが歴史から学ぶべきは権力が一人の人間に集中したとき、その人の性格やトラウマがいかに国全体を左右してしまうか、という恐ろしさかもしれませんね。

 

太宗と世祖が残した「王を替えてもよい」という前例

太宗は王位継承に不満があれば挙兵してもよい。臣下の圧力で王を退位に追い込む前例を作りました。

世祖は武力で王を倒しても、あとから「これこそ正しい継承だ」と言い直せる前例を作りました。

「暴君を倒すのは正しい」という名目で、家臣が王を取り替える道が現実の選択肢として定着。

その先に中宗反正や仁祖反正があり。成功はしませんでしたが、王族を担いでの反乱や反乱未遂はその後も続きます。

こうして見ると太宗・世祖は「クーデターを可能にする世界」を作った王だったと言えます。そうしてクーデターで倒された側が「暴君」として記録される。もしかすると本当の燕山君や光海君は私たちの知るような人ではなかったかもしれませんが。今となってはわかりません。

暴君の定義は曖昧

今回、朝鮮王朝の代表的な4人を選んで紹介しました。

朝鮮史上最悪の暴君が燕山君なのは誰もが認めるところだと思いますが。その次は?となると意見が分かれるところでしょう。何を基準にするかによっても違いますし。

過去の記録は勝者が書いたものですから、捻じ曲げられている可能性もあります。今回は2位以下を、世祖・光海君・太宗を選びましたが。この順位も見方が変われば変化します。ランキングはあくまでも目安。考える切っかけだと思ってください。

ここに書いてある事を見て、あなたなりに暴君の意味を考えてもらえたらと思います。

あなたはどう思ったでしょうか?

 

H3:よくありそうな疑問・ひとこと回答

Q. 一番ひどいのは、やっぱり燕山君?
A. はい。4つの条件すべてが強く出ていて「注意する人から消される」行動が予測不能という点でも別格です。

Q. 世祖と光海君は、どちらが重い?
A. 権力欲のためのクーデターと粛清した人の数でみれば世祖のほうが重く、ここを理由に世祖を2位にしました。光海君は政争と後世の評価がからんで、少し判断が難しい王です。

Q. 太宗は暴君ではないの?
A. 前半だけなら暴君らしいですが、即位後の姿を見ると「強くて怖い王」に近い、と判断して4位にしました。

Q. 暴君でなのにきちんと仕事もした王はいる?
A. 世祖や太宗はまさにそのタイプです。強引な手で権力を握りましたが、法や制度を整える面もありました。そこが単純な「悪役」と違うところです。

 

関連記事

朝鮮王朝には聖君以外にも様々な王がいます。王の一覧やダメ王の記事も見てくださいね。

 

 

PR
国王
この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
運営者SNS: X(旧Twitter)

フミヤをフォローする
PR

リクエスト歓迎!

アジアのドラマで知りたい歴史上の人物は他にいますか? 人物以外にも出来事・事件や文化・時代背景・民族や国など。アジアの歴史ならOK。中国・韓国以外でもできるだけお答えします。 必ず記事にできるとは限りませんが、できるだけお応えします。コメント欄に書き込んでくださいね。 (リクエストはコメント欄に表示されません)

コメント

error:
タイトルとURLをコピーしました