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海安靖僖君・中宗の一番のお気に入りはなぜ王になれなかった?

3 李氏朝鮮の王子

海安靖僖君 李㟓(イ・ギ) は李氏朝鮮王朝の王子。
第11代国王・中宗の次男です。

「靖僖」は死後かなりたって贈られた称号。一般には「海安君」と言われます。

海安君は物静かで読書好きで、美形でした。中宗からも評価が高く「こんなにいい王子は他にいない」と可愛がられていました。

でも庶子だったので世子にはなれませんでした。

史実の海安君はどんな人物だったのか紹介します。

 

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海安靖僖君 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1511年(中宗6年)旧暦6月15日
没年月日:1573年(宣祖6年)旧暦8月4日
享年63歳

姓:李(イ)
名:㟓(ギ)
称号:海安靖僖君
父:中宗
母:淑儀洪氏
正室:
普山君夫人 柳氏 
郡夫人 慎氏 娘1人
側室:宝今 息子6人、娘4人

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に11代中宗~14代宣祖の時代です。

日本では戦国時代の人になります。

1511年(中宗6年)。朝鮮の第11代王·中宗と側室の洪氏の子として生まれました。

中宗の次男です。

仁宗(インジョン)、明宗(ミョンジョン)、徳興(トクフン)大院君(宣祖の父)などの異母兄です。

生母の淑儀洪氏は南陽洪氏出身。中宗の寵愛を受けた側室だといいます。

1518年(中宗13年)。8歳のとき。「海安君」の称号を与えられました。

1520年(中宗15年)。章敬王后 尹氏の息子・李峼(イ・ホ:後の仁宗)が世子になりました(世子は6歳)。李峼には福城君・海安君・錦原君の兄がいました。3人とも庶子のため世子にはなれませんでした。

1522年(中宗17年)。中宗は自分の子供の家を修理させました。ところが司諫院が贅沢だと訴えを起こします。そこで修理の規模を必要な所に限り行う事になりました。この時、海安君の家にあった池の修理も中止になりました。

灼鼠の変で王子たちの身に危険

1527年(中宗22年)。王世子の12歳の誕生日。王宮内で足と尻尾が切られ、目、口、耳に火をつけたネズミの死体が見つかりました。そのうちの一つが、世子が住んでいた東宮の外の木に置かれていました。

このとき敬嬪朴氏とその子・福城君が犯人にされて重臣たちから訴えられました。圧力に負けた中宗は敬嬪朴氏と福城君を追放します。

この事件は後に世子派の重臣たちが仕組んだ陰謀だったとわかります。でも灼鼠の変は他の王子やその母たちに恐怖を与えました。妃嬪たちは自分の子を守ろうと中宗に助けてくれるようにお願いに行きました。

1530年。柳氏と結婚しました。ところが柳氏が1532年(中宗27年)に死亡してしまいます。

1533年(中宗28年)。金安老(キム・アンロ)たち世子派の重臣たちの勢いは止まりません。重臣の抗議に負けて、中宗はすでに追放になっている敬嬪朴氏と福城君を死罪にしました。

1533年(中宗28年)。海安君の二人目の妻を選ぶことになりました。

このとき中宗は同時に世子(後の仁宗)と海安君の夫人を選ぶよう命令しました。ところが臣下たちは海安君の夫人選びを先にすすめてしまい、世子の妃選びははかどりませんでした。結局、世子の妃選びを先に行い、そのあと海安君の夫人選びが行われました。

臣下たちの世子派に対する抗議の意志もあったのかもしれません。

海安郡はいくつかの役職を務めました。

1542年(中宗37年)。3度も縁故を理由に弾劾を受けて罷免されました。

1546年(明宗1年)。 司憲府によって再び弾劾されました。でもこの時は明宗がかばったので処分はありませんでした。

1561年(明宗16年)。 海安君の娘婿·金奎が科挙の兵科に合格しました。ところが重臣から不正な選抜だと批判をうけました。

1573年(宣祖6年)。 海安君は死亡。享年63歳。

1788年(正祖12年)。正祖から「靖熹」の諡号が贈られたました。

墓所は楊州·新穴里に作られました。

目立つ王子は目をつけられる

海安君はいつも物静かで読書好きで、お酒を飲まなかったといいいます。 また容貌も端正で美しかったといいいます。 中宗は「私の息子の中で最も落ち着いていて、浮ついていない、海安君のような子はいない」と褒めていました。

でもいくら中宗が気に入っても庶子だったので世子にはなれません。

また中宗は自分が使っていた屋敷を海安君に与えました、海安君はいつも質素にしていたので人々がその家の前を通ってもそこが王子の家だとは気が付かないほどでした。もともと控えめだったようですが。こうした行動もできるだけ目立たないようにして政争に巻き込まれたくない。という海安君の思いもあったのでしょう。

海安君は、中宗だけでなく明宗からも大切にされ。海安君が病気になったときは明宗は常に御医を派遣していました。

海安君は王から気に入られていましたが、それだけに重臣たちから目をつけられやすく、長男の福城君が賜死になったあとは弾劾を受けることもありました。このころ朝廷は世子派(尹一族とその仲間たち)が力を握っていたので力のない王ではどうにもできません。

明宗が王になっても海安君をとりまく環境はあまり変わりません。小尹派が力を持っていたので口実があればすぐに弾劾を受ける立場にいました。

海安君は福城君を教訓にしてひっそり生きていくしかなかったのです。

 

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