安平大君(アンピョンテグン)、首陽大君と争い破れた芸術家タイプの王族

1.3 李氏朝鮮の王子・王女

安平大君は李氏朝鮮4代国王・世宗の三男。兄は5代国王文宗、7代国王世祖(首陽大君)です。

韓国ドラマ「不滅の恋人、原題:大君(テグン)」の主人公イ・フィ(ウンソンテグン)のモチーフにもなりました。

歴史上の安平大君は、文宗の息子・端宗を補佐して政治に関わりましたが兄・首陽大君との争いに破れ処刑されてしまいます。

政治的に関心があったといわれる一方で、芸術活動も盛んでした。詩歌が得意で文人や芸術家との交流もおこないました。

史実の安平大君はどんな人物だったのか紹介します。

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安平大君(アンピョンテグン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1418年
没年月日:1453年

名前:李瑢(イ・ヨン)
称号:安平大君(アンピョンテグン)
父: 世宗
母:昭憲王后 
妻:迎日鄭氏

子供
宜春君、徳陽君、娘

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に4代世宗~6代端宗の時代です。

日本では室町代の人になります。

おいたち

1418年(世宗即位年)。世宗と昭憲王后の3男として産まれました。
3歳のとき、叔父の誠寧大君の養子になりました。

1428年(世宗10年)。11歳。安平大君(アンピョンテグン)の称号が与えられました。

1429年(世宗11年)。12歳。左議政をつとめた鄭淵の娘と結婚しました。

1430年(世宗12年)。13歳。臨瀛大君らとともに成均館に入学、学問(儒教)を勉強しました。

1438年。21歳。女真族討伐に参加。女真族討伐で指揮を務めた金宗瑞(キム・ジョンソ)達と親しくなりました。社交的な人物で、武官たちとしたしくなり共に狩りにでることもありました。しかし文官達との交流が多かったようです。

兄・首陽大君どうように政治に対する野心はあったようです。父・世宗の時代には政治の世界からは遠ざけられていましたが、兄・文宗の時代には政治に関わるようにになりました。

1452年。文宗が死去。文宗の子・端宗が即位しました。端宗は11歳と幼く、外戚の援助も期待できません。そこで政治の主導権を巡って皇甫仁、金宗瑞たち大臣と、首陽大君たちが争っていました。皇甫仁、金宗瑞たちは首陽大君に対抗するために、安平大君を味方にしました。

安平大君も政治的な関心があったといわれますが、芸術家タイプの安平大君の方は文官に人気がありました。

1453年1月。息子の宜春君が病死。5月には妻・鄭氏が死亡しました。安平大君はそれまでは仏教を信じていました。しかし「家族が次々と失ったため仏を信じても意味がないから仏教の信仰を捨てる」と周囲の人に語りました。

しかし安平大君と鄭氏は以前から不仲でろくに顔も合わせていませんでした。事実、安平大君は鄭氏の葬儀に出席していません。息子・宜春君の葬儀にも出席せず「まるで庶子の葬儀みたいだ」と噂されました。仏教への信仰を捨てたのは他の理由もあったのかもしれません。

首陽大君は仏教への崇拝が厚い人物でした。首陽大君と仲の悪い儒学者勢力との付き合いを優先して仏教への信仰をやめた可能性もあります。儒学者たちは仏教に批判的だったので、仏教を捨てることで儒学者達に仲間だとアピールしたのかもしれません。

安平大君は河演、安堅、朴彭年など書家・画家たちとよく交流し、安平大君自身も詩文や書画が得意な風流人でした。しかし世祖は安平大君の作品を破壊したためあまり残っていません。

癸酉靖難

1453年。首陽大君がクーデターを起こして皇甫仁、金宗瑞を殺害。安平大君は捕らえられ、10月10日に江華島に島流しになりました。10月18日、毒薬を飲まされ死亡しました。

この事件を癸酉靖難(きゆうせいなん、ケユジョンナン)と呼びます。

安平大君は財産を没収され、長男も島流しになったあと処刑。他の家族たちは権擥(クォン・ラム)の奴婢にされました。

安平大君とその家族は王族の家系からも外されて庶民扱いになりました。粛宗の時代に王族としての地位を取り戻しました。

テレビドラマ

ハンミョンフェ  KBS 1994年 演:ノ・ヨウングク
王と妃 KBS 1998年 演:チョン・ソンモ
大王世宗 KBS 2008年 演:ハン・シフン
王女の男 KBS 2011年 演:イ・ジュソク
インス大妃 JTBC 2012年 演:イ・クァンギ

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