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瓜爾佳氏(胤礽嫡福晋)夫の胤礽とともに廃位された皇太子妃

大清 1.6 清の福普・夫人・女達

嫡福晋 瓜爾佳(かじか)氏は清の皇太子・胤礽(いんじょう)の妻。

嫡福晋とは皇族の正室(皇太子妃)の意味です。

中国ドラマ「花散る宮廷の女たち~愛と裏切りの生涯~」では「賀蘭(がらん)という名前で登場します。

瓜爾佳氏の本名はわかりません。賀蘭(がらん)はドラマオリジナルの名前です。

史実の瓜爾佳氏はどんな人物だったのか紹介します。

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瓜爾佳氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1718年

姓:瓜爾佳(かじか)
名:不明
地位:福晋(夫人)
父:石文炳(せきぶんへい)
母:
夫:胤礽

彼女が生きたのは清朝の第4代皇帝・康熙帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

瓜爾佳一族

石という漢民族の姓をもっていますが、祖先は満洲人(女真族)です。

一族は明の嘉靖年間(1522年 – 1566年)に遼東半島に移住して「石」姓を名乗っていました。明王朝に仕えていたこともあります。

高祖父・石華善は漢八旗のひとつ漢八正白旗人の軍人です。努爾哈赤(ヌルハチ)の息子・多鐸(ドゴ)の娘婿でした。

漢八旗は主に遼東半島に住む満洲族・モンゴル族以外の人々で編成されたグループ。石家は遼東半島に住んで石姓を名乗っていたので「漢八旗」に組み込まれたようです。

漢民族の将軍・呉三桂が清に反乱を起こすと、石華善は反乱鎮圧に貢献しました。

康熙27年(1688年)。石華善は満洲族の籍を請求して認められました。満洲正白旗人となります。祖先が名乗っていた瓜爾佳の姓を使いました。しかし石姓で呼ばれることも多かったようです。

瓜爾佳一族は清の皇族と多くの婚姻関係を結びました。

皇太子妃になる

後に皇太子・胤礽の妻になる瓜爾佳氏がいつ生まれたのかはわかりません。

瓜爾佳氏の記録で一番古いのは康熙34年(1695年)6月。瓜爾佳氏が皇太子妃になったという記録です。

胤礽の年齢は22歳。1695年以前に二人が結婚していたのかはわかりません。

康熙36年(1697年)。11月。瓜爾佳氏が女の子を出産。

康熙40年(1701年)。胤礽が皇太子の座を奪われ西安宮殿に幽閉されました。

胤礽が廃位されたあと、皇子たちの争いが激しくなります。

朝廷内は後継者を誰に決めるかで争いになりました。皇子たちの後継者争いにうんざりしていた康熙帝は「胤礽は以前は問題があったが今は治った」と言い訳をして再び皇太子にしようと決めました。

康熙48年(1709年)。胤礽は再び皇太子になりました。瓜爾佳氏も再び皇太子妃になります。

康熙51年(1712年)。ところが康熙帝と胤礽の関係が悪くなり、胤礽は廃位されて幽閉されます。瓜爾佳氏も一緒に西安宮に幽閉されました。

やがて瓜爾佳氏は無気力になりうつ病になりました。

康熙57年(1718年)5月。瓜爾佳氏の容態が悪くなりました。重病だったといいます。

7月。瓜爾佳氏が死亡しました。

瓜爾佳氏は清王朝では唯一の皇太子嫡福晋(皇太子妃)の位を持つ女性です。というのも清王朝では皇太子を決める習慣はあまりありませんでした。皇帝の跡継ぎは部族の長たちが話しあって決めることが多いのです。「皇太子」という地位になった人がほとんどいないので、皇太子妃となった人も殆どいないのです。

ドラマ「花散る宮廷の女たち~愛と裏切りの生涯~」では胤礽をめぐって年姝媛(敦粛皇貴妃年氏)と争っていますが、歴史上はそのような記録はありません。

むしろ康熙帝からは親孝行で心の広い人物と高い評価を得ていました。

しかし夫の胤礽が後継者争いに巻き込まれ康熙帝と対立したことで彼女の運命も変わってしまいました。

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