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スマラは孝荘文皇后と姉妹のように育ち康熙帝から母と呼ばれた侍女

大清 1.6 清の福普・夫人・女達

スマラは清朝の孝荘文皇后(ブムブタイ)に仕えた侍女。モンゴル出身ですが。モンゴルが清朝の支配下に入っていたこともあり清の王室で働くことになりました。

ドラマ「王家の愛・侍女と王子たち」ではドルゴンに愛されるヒロインとして登場。さすがに王子との恋愛があったかはわかりません。

でも史実のスマラも興味深い人生をおくっています。

ブムブタイとは姉妹のように仲が良かったといわれます。スマラは頭がよかったので皇子たちの教師を務めたり、皇子を育てたこともあります。

史実のスマラはどんな人物だったのか紹介します。

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スマラの史実

Sumalagu1スマラの肖像画(wikipedia)

いつの時代の人?

生年月日:1612~1615年
没年月日:1705年

名称:スマラ(中国名:蘇麻喇、Sumala)

国:モンゴル→清
呼称:スマラジュ(中国名:蘇麻喇姑、Sumalagu)

父:不明
母:不明
夫:なし

子供:なし

彼女は清朝の孝荘文皇后の侍女です

日本では江戸時代の人物になります。

おいたち

モンゴル出身。モンゴルでの名前はスマル(蘇麻兒:Sumal)。満洲語ではスマラ(蘇麻喇、Sumala)

スマラの前半生はよく分かっていません。

一説によると、1612~1615年の間にモンゴルのホルチン部で生まれまれました。家族は遊牧を営む一家でした。

スマラは美しく頭のよい女性でした。

そのためモンゴルのホルチン部を治めるベイレ(首領)のジャイサン(Jaisang、寨桑)の次女・ブムブタイ(後の孝荘文皇后)の侍女になりました。

天命10年(1625年)。ブムブタイが13歳のとき。アイシン国(後金)のヌルハチの第8皇子・ホンタイジの側室になりました。

スマラもブムブタイとともにアイシン国の首都・盛京(ムクデン)に行きました。

1626年。ヌルハチが死去。ホンタイジがアイシン国のハン(王)になりました。

1636年。ホンタイジはアイシン(後金)をダイチン(大清)に改称。ハーン(皇帝)を名乗ります。ブムブタイは永福宮荘妃になりました。

1639年。ブムブタイはフリン(後の順治帝)を出産しました。

スマラは草原育ちでした。でも主人のブムブタイと一緒に宮殿で暮らしている間に急速に文化を身に着けました。

モンゴル語の他に満洲語、中国語も覚えました。特に満洲語は流暢に話せました。そのため幼いころの康熙帝など、皇子たちの教師役になることもありました。

1643年。ホンタイジが死去。ドルゴンはフリンを皇帝にしました。

ブムブタイは聖母皇太后になりました。スマラは皇太后付きの女官になり スマラジュ(蘇麻喇姑、Sumalagu)と呼ばれました。「姑」は日本語で「しゅうとめ」の意味。「おばさん」といった意味で親しみを込めた呼び方のようです。

順治元年(1644年)。清は北京に入りました。スマラは紫禁城で暮らすことになりました。

スマラとブムブタイは公的な場所では主従でした。でもとても仲がよくてプライベートな場所では姉妹のようでした。そのためスマラの地位は宮廷内でも高く、人々から尊敬されていました。

ブムブタイは31歳で未亡人になりました。でもその寂しさを紛らわすことができたのはスマラがいたからと言われます。ブムブタイはスマラのことをゲゲ(格格)と呼びました。清朝の皇室では皇族の側室の称号でしたので侍女がゲゲ(格格)と呼ばれるのは異例です。

スマラは仕立ての専門家で自分も服を着こなすのが上手でした。清朝の衣装の発展に貢献しました。

モンゴルの高原で育ったスマラはもちろん馬に乗るのが得意。主人のブムブタイが外に出かけるときは馬に乗ってお供しました。

1661年。順治帝が死去。第3皇子・玄燁(康熙帝)が即位しました。

康熙帝はスマラを”額涅”とか“額娘”つまり「母」と呼びました。

スマラはとても控えめで用心深い性格でした。皇族に敬意をもって接するだけでなく、40歳以上年下の康熙帝の前では常に”下僕”を名乗っていました。

ブムブタイの死を乗り越え皇子を育てる

康熙26年(1687年)。長年仕えたブムブタイが死去。

スマラは精神的に大きなショックを受け、大きな悲しみと孤独に悩み体調を崩しました。

康熙帝はスマラの悲しみと孤独を癒やすために側室が生んだ12皇子の胤祹をスマラに育てさせることにしました。胤祹は当時3歳でした。

清朝の習慣では皇子を育てることができるのは嬪以上の女性だけでした。康熙帝はそれだけスマラを信頼していたのです。

スマラは生きる気力を取り戻しました。それとともに大きな責任感を持ち胤祹を立派に育てることにしました。

胤祹は有能な皇子に成長。康熙帝の治世の末期におきた皇子たちの後継者争いには加わらず中立を保ち。雍正帝の時代になっても生き延びました。乾隆帝の時代には大臣になりました。

仏教に生きた晩年のスマラ

胤祹が成長すると子育ての必要がなくなります。スマラの晩年は静かな余生を送りました。

スマラは仏教を深く信じました。仏教徒だったブムブタイや順治帝の影響もあったようです。スマラの信心深さは並ではなく、毎日仏像に祈り肉を食べず菜食主義を貫きました。

1705年。スマラは死去。「70年生きたら長生き」といわれる時代に90歳(以上)生きました。

ドラマ

王家の愛 2018、中国 演:ドゥ・ルオシー

コメント

  1. ななし より:

    いつもためになる内容ありがとうございます。中国ドラマを見る時いつもこちらを見させてもらってます。
    以前、リクエストに答えて頂きありがとうございました。
    今、龍珠伝を見ていて、私にとって初の康熙帝のお話なのですが、龍珠伝のwikiがなくあまり詳しいサイトがなくて…是非、康熙帝や康熙帝の皇后や側室などを教えて頂けたら嬉しいです。

    • Fumiya より:

      いつも見てくださってありがとうございます。恥ずかしながら「龍珠伝」はまだ見てませんね。調べてみます。康熙帝と妃嬪たちはこれから記事を載せていきますのでお待ち下さい。

      • ななし より:

        早々のお返事ありがとうございます。
        麗王別姫のキャストさんがたくさん出てると知り、見始めたばかりなんです。
        見始めて、いざ調べようとしてもなかなか詳しく載ってるところがなくて(相関図もなくて)行き詰まってしまい、またコメントしてしまいました。
        年末年始でお忙しいと思いますが、お手隙のときによろしくお願い致します。

        • Fumiya より:

          とりあえず康煕帝と皇后だけ載せました。他の作品も調べながらになのですぐには増えないかもしれませんが。気長にみてやってくださいね。

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