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金一鏡(キムイルギョン)は老論派と激しく対立した少論の強硬派

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

金一鏡(キム・イルギョン)は李氏朝鮮の重臣。

19代粛宗から21代英祖の時代に活躍しました。

強行的な少論派で何度も老論派と対立しました。

史実の金一鏡はどんな人物だったのか紹介します。

 

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金一鏡(キム・イルギョン)の史実

プロフィール

名前:金一鏡(キム・イルギョン、きん・いっきょう)
雅号:

生年月日:1662年
没年月日:1724年
本貫:平安蔡氏
派閥:南人派
父:金夏重

 

彼が主に生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

金一鏡(キム・イルギョン)は1662年に漢城(現在のソウル)で生まれました。彼の家系は西人派の名門でした。西人派が老論派と少論派に分裂後は老論派の名門になりました。

ところが粛宗時代の末期、父・金夏重は少論派にうつりました。

1699年。金一鏡は科挙に合格。司憲府監察などを歴任したあと、世子侍講院文学で世子・昀(ユン、後の景宗)の教育を担当しました。

その後、司憲府持平(正五品)。掌隸院判決事などを歴任。

1710年。同副承旨になりましたが、老論派によって左遷されてしまいます。これ以降、金一鏡は少論の強硬派として老論派と激しい対立を繰り返します。

1720年。景宗が即位しました。景宗は少論派に支えられていました。金一鏡はふたたび同副承旨になります。

辛丑換局で老論派を粛清

1721年。老論派は延礽君(ヨニングン)を王の後継者・世弟にするように要求。延礽君が世弟になると景宗の病気を理由に代理聴政を要求します。景宗はあっさり認めますが、それに対して少論派の金一鏡は趙泰耉(チョ・テグ)たちと一緒に激しく反対しました。少論の反対で代理聴政は撤回されました。

代理聴政を阻止した少論派は老論派を激しく追及しました。

金一鏡は少論派の先頭に立ち他の強硬派とともに老論派を弾劾しました。この弾劾で金昌集(キム・ジャンチプ)、李頤命(イ・イミョン)、趙泰采(チョ・テチュ)、李健命(イ・ゴンミョン)たち老論派の主要な重臣たちが流刑になったり処罰されました。

この事件を辛丑換局(しんちゅうかんきょく)といいます。

1722年(景宗2)。金一鏡は司憲府大司憲になり、後に刑曹判書になりました。

辛壬士禍で延礽君の失脚を狙う

老論派を排除することはできましたが、延礽君(ヨニングン)は世弟のままです。景宗に息子ができなければ延礽君が王になってしまいます。そこで金一鏡は老論派の睦虎龍を買収。睦虎龍に老論派の子弟が反乱を企てていると密告させます。

老論派は捕まりましたが誰も反乱の企てを認めません。認めないまま処刑されました。すでに流刑になっていた金昌集(キム・ジャンチプ)、李頤命(イ・イミョン)、趙泰采(チョ・テチュ)、李健命(イ・ゴンミョン)たちは処刑されました。

その反乱には延礽君(ヨニングン)も関わっているのではないかと噂されました。それこそが金一鏡たち少論の目的だったのですが、景宗は延礽君と老論の関係を調査することを認めませんでした。

この事件を辛壬士禍(じんしんしか)といいます。

 

金一鏡の最期

1724年。景宗が死去。延礽君が即位して英祖になりました。英祖を支持していたのは老論派です。老論派の反撃が始まります。

老論派は金昌集、李頤命、趙泰采、李健命たちの名誉回復と、彼らを処刑した金一鏡の処分を求めました。少論も反論しましたが、英祖は金一鏡を義禁府に投獄にしました。

英祖が景宗を毒殺したと信じていた金一鏡は「私を殺せ」と訴えました。その年の12月、金一鏡は処刑されました。

金一鏡の妻子も連座で処罰されました。

 

テレビドラマ

大王の道 1998年、MBC、演:イ・ジンウ
 ドラマでは悪役の一人。いきなりヨニングンの命を狙おうと大胆な行動をとります。

テバク 2016、SBS、演:イ・ギヨン

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