任士洪(イム・サホン)燕山君に仕えた奸臣は本当に悪人だったのか?

任士洪(イム・サホン)は成宗や燕山君に仕えた重臣。
とくに燕山君にうまく取り入って権力を手にした人物として描かれることが多いです。

ドラマでは悪役のような任士洪(イム・サホン)ですが、彼自身も士林との対立や燕山君の横暴に悩まされるなど苦労の多い人生でした。

史実の任士洪(イム・サホン)はどんな人物だったのか紹介します。

任士洪(イム・サホン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1445年
没年月日:1506年

名前:任士洪(イム・サホン)
称号:
父:任元濬
母:宜寧南氏
妻:全州寶氏

子供
任光載(豊川尉、睿宗の娘と結婚)
任熙載
任文載
任崇載(豊原尉成宗の娘と結婚)
2女

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に6代世祖~10代燕山君の時代です。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

1445年。左賛成の任元濬の息子として生まれました。

幼い頃から記憶力がよかったといいます。
漢城府の著名な文人に弟子入りしました。しかし師匠が罪人となってしまったので、誰に弟子入りしたかは秘密にされました。

蔭位(推薦で役人になること)で出仕。成均館に入学して儒学性になりました。

1465年。世祖の命令を受けて経書を解説することもありました。

1466年。科挙の試験を受けましたが落第。

司宰監司正を経て弘文館の校理(正5品)になりました。

当時、権力を持っていた韓明澮(ハン・ミョンフェ)や申叔舟(シン・スクチュ)などの政治はやり過ぎだと批判しました。

1468年。南怡(ナム・イ)や康純(カン・スン)が謀反を企んでいると非難をあびました。任士洪(イム・サホン)は彼らが謀反を企んだとは考えていなかったので批判には加わりませんでした。

1468年(睿宗1年)。奉常寺(祭儀を行う役職)などを歴任。
明の使節を接待するため開城に派遣されました。

成宗時代

書の名人だった任士洪(イム・サホン)は成宗即位後、月山大君の碑文を作成しました。ところが碑文をめぐって弾劾をうけて左遷されましたが、成宗の命令で復帰しました。その後、世祖実録、睿宗実録の編纂に関わりました。

その後、成宗の信頼の厚かった任士洪(イム・サホン)は都承旨、吏曹判書など要職を歴任しました。

士林派とはたびたび対立するようになります。

王妃尹氏の廃妃に反対

1477年。王妃尹氏が成宗の顔を傷つける事件が発生。司憲府、義禁府などが厳しく罰するように求めました。しかし任士洪(イム・サホン)は王世子李漋(イユン、後の燕山君)の生母であることを理由に処罰に反対しました。しかし尹氏の廃妃に反対したことで「世子が王になったときの保身のために反対しているのだ」「ズルいやつだ」という批判を浴びましたました。

1478年。都承旨になりました。

士林との対立

成宗は世祖の時代から力を持つ重臣たち勲旧派の力を抑えるため。士林を大量に登用しました。士林とは勲旧派たちによって政治の世界から遠ざけられていた儒学者たちです。成宗に登用された士林たちは勲旧派を激しく追求しました。士林は他愛のない理由でも理屈をつけて激しく追求しました。

任士洪(イム・サホン)もその士林の攻撃の標的になりました。

任士洪は柳子光(ユ・ジャグァン)などと派閥を作って横暴な行いをしたという理由で島流しになりました。

彼が没落すると、それまで交流していた知人たちからも相手にされなくなり寂しい生活を送りました。流刑先で書や文字を教えて暮らしました。

士林派の重臣たちは任士洪の死罪を求めましたが、成宗はこれを拒否。さらに成宗は自分の娘・徽淑翁主と、任士洪の次男・任崇載の婚姻を進めました。

さらに息子の嫁である公主が会いたがっているという理由で釈放されます。

1488年。成宗の特別な指示で折衝將軍副護軍に任命されました。

成宗は任士洪を寵愛していました。しかし士林の言葉を信じた成宗はしだいに任士洪を信用できなくなっていたようです。成宗在位中はかつてのように要職につくことはありませんでした。

燕山君時代

1494年。燕山君が即位しました。

燕山君は些細なことで抗議ばかり行う士林を鬱陶しいと思っていました。

1498年。燕山君は柳子光とともに金馹孫(キム・イルソン)、金宗直(キム・ジョンジク)ら士林派の粛清を行いました。

戊午士禍

任士洪(イム・サホン)は金馹孫(キム・イルソン)に直接恨みはありませんでした。しかし、任士洪を陥れたの士林だったので士林には恨みはありました。そこで燕山君と柳子光に接近して彼らの見方をすることにしました。金馹孫たち士林たちが大量に処分されます。この事件を戊午士禍といいます。

甲子士禍

1504年。燕山君は生母・尹氏の身分を回復させようと考えます。しかし士林たちの反対にあいます。

そんな中、任士洪は愼守勤(シン・スグン)、柳子光とともに廃妃尹氏の生母・愼氏を燕山君に会わせました。愼氏は燕山君に血の付いた衣を見せたといいます。

母の無念を知った燕山君は廃妃に追い込んだ者たちへの復讐を始めます。任士洪の思惑を超えた予想外の虐殺になってしまいました。

粛清が続く中。任士洪の三男・任熙載(イム・ヒジェ)は燕山君の行いを避難して処刑されました。任熙載は戊午士禍で処刑された金宗直の弟子でした。

息子の任熙載が処刑された当日、任士洪は自宅で音楽をならし宴会をしていました。燕山君は人を使って任士洪の様子を探らせると、さらに任士洪への信頼を高めました。

しかし燕山君の使者が帰ったあと、任士洪は号泣していたといいます。息子を救えなかったことを悔やんでいたのでしょう。

甲子士禍では任士洪と親しかった人物も犠牲になりました。甲子士禍の惨劇は必ずしも任士洪が望んだものではなかったようです。

その後の余生

1504年。任士洪は兵曹判書になりました。

しかし、全国を回って顔の美しい女性を見つけて王に捧げる役目も与えられました。任士洪は屈辱的な仕事だと思ったので手を抜きました。

士林から燕山君の悪行を煽った人物として批判を受けることもありました。

1505年。息子の崇載が病で亡くなります。

燕山君は任士洪が連れてくる女性があまり美しくないというので、公の場で任士洪を非難することもありました。

1506年。吏曹判書になりました。平安道観察使として赴任するときには家族が一緒に行けるように燕山君に訴えて実現させました。

中宗反正

1506年9月。燕山君に反感をもつ重視たちがクーデターを起こしました。

任士洪は弟とともに逮捕され処刑されました。享年62。

ドラマでは燕山君に取り入り悪事をはたらく奸臣として描かれる任士洪(イム・サホン)。でも士林派によって誇張された部分もあるようです。

成宗の寵愛を受けていた任士洪は士林によって地位を追われ一度は流罪になりました。戻ってきた任士洪は士林への恨みがあったのは間違いありません。燕山君に仕えた任士洪は様々なものを犠牲にして最期は自らも処刑されてしまいました。任士洪なりに苦労の多い人生だったのかもしれません。

テレビドラマ

ハンミョンフェ KBS 1994年 演:アン・ビョンギョン
チャンノクス  KBS 1995年 演:イ・ヨウンフ
王と妃 KBS 1998年 演:イム・ヒョク
王と私 SBS 2007年 演:イム・ビョンギ
仁粋大妃 JTBC、2011年 演:パク・スンホ
 7 日の王妃 KBS 2017年 演:カン・シンイル


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