仇士良(きゅう・しりょう)は唐朝時代の宦官です。
憲宗~武宗時代に力をもっていました。
文宗・武宗時代の初期には皇帝を凌ぐ権力を持っていましたが、仇士良は武宗をコントロールできなくなり、引退に追い込まれます。
中国ドラマ「与君歌」の「仇子梁」のモデルになった人物です。
この記事では史実の仇士良がどのような生涯をおくったのか紹介します。
仇士良の史実
プロフィール
生没年
生年月日:781年
没年月日:843年7月23日
享年:62歳
日本では平安時代になります。
名前
姓:仇(きゅう)
名:士良(しりょう)
字:匡美
家族
父:仇文晟
母:不明
妻:安定胡氏
子:
仇從廣、仇亢宗、仇從源、仇從殲、仇從軒
おいたち・宦官の家系に生まれる
仇士良の曾祖父 仇上客、祖父 仇奉詮も宦官、内給事や内常侍を務め、大きな影響力をもっていました。
宦官なのに子孫がいるのはなぜ?
宦官なのに子孫がいるのは不思議に思うかも知れません。
唐朝では権力さえあれば結婚したり、養子を迎えて家を残すことができます。そのため代々宦官の家も存在するのです。
仇士良は781年に誕生。
父の仇文晟は生前には官職を持っておらず、仇家の勢いは衰えていました。
宦官になって東宮に仕える
仇士良は16、7歳の頃に宦官になり、東宮の李誦に仕えました。
李誦や息子の李純と親しくなります。
805年(貞元21年)。順宗 李誦が即位。
仇士良は掖庭局宮教博士に任命されました。
このころの仇士良にはまだ力はありません。
順宗は脳溢血で倒れ体が不自由になったので、即位7ヶ月で譲位することにします。
このとき宦官の具文珍たちが長男の李純への譲位を勧めました。仇士良もその一味に加わっていました。
憲宗の時代:出世の始まり
805年9月(貞元21年)。憲宗 李純が即位。
憲宗を即位させた功績で仇士良たちは宣徽供奉官に昇進。ここから彼の出世街道が始まります。
元和5年(810年)には護軍中尉の宦官 吐突承璀(ととつしょうさい)に同行して王承宗の討伐に参加。昭義軍節度使の盧從史を捕らえるのに協力しました。
その後も昇進。
呉元濟の反乱を平定する戦いにも加わりました。
仇士良は最初は九品の宦官でしたが五品の宦官に昇進しました。
穆宗の時代:中央から外れ気味
元和15年(820年)。憲宗が宦官の王守澄(おう・しゅちょう)に殺害され。穆宗 李恒(り・こう)が即位しました。
宦官にも派閥があります。吐突承璀・仇士良たちは王守澄とは仲がよくありません。
吐突承璀は殺害され、仇士良も左遷。軍を監督する監軍使として地方に赴任することが増えます。
穆宗は丹薬中毒で30歳で死亡。息子の敬宗 李湛(り・たん)が即位しました。敬宗は乱暴者で宦官とも対立。結局、敬宗は宦官の劉克明たちに殺害されました。
劉克明と対立していた王守澄が劉克明を殺害。敬宗の弟の江王 李涵(り・かん)を即位させました。
文宗の時代:甘露の変
宦官 王守澄の傀儡だった文宗
李涵は李昂(り・こう)に改名。
太和元年(827年)。文宗 李昂(り・こう)が即位しました。朝廷の権力が王守澄が握り、文宗には実権はありません。
仇士良は宮廷に呼び戻され、内侍省の職務を担当しました。
王守澄を排除
恩着せがましい王守澄に不満を持った文宗は李訓(り・くん)や鄭注(てい・ちゅう)たちと王守澄の排除を計画。王守澄と仲の悪い仇士良を利用しようと考えました。
文宗は仇士良を左神策軍中尉に任命。軍の指揮を任せると、仇士良の親戚・李好古が王守澄を毒殺。
文宗は王守澄の排除に成功しました。次に仇士良も排除しようとします。
甘露の変が始まる
太和9年(835年)。文宗と宰相 李訓、鄭注は王守澄の葬儀で仇士良を抹殺しようと計画。
ところが手柄を独り占めしようとする李訓が抜け駆け。
李訓は「甘露が降った」と嘘の報告をして仇士良に確かめさせました。李訓は兵士を幕の裏に隠し、宦官が集まったところを一気に殺害する予定でした。
仇士良は李訓の配下の武将・韓約(かん・やく)が汗水を垂らしているので怪しいと思いました。
すると風が吹いて幕がめくれ上がってしまい、幕の裏に兵士がいるのが見えました。
仇士良は罠だと気づいで逃げ出し、すぐに文宗の元に行き李訓の反乱を告発。仇士良は禁軍を動かして文宗を誘拐すると、李訓、鄭注たちを殺害しました。
この事件で多くの臣下が殺害され。文宗の味方は一気に減ってしまい。仇士良が権力を握りました。この事件を甘露の変といいます。
仇士良が朝廷の権力者になる
甘露の変後。宦官はますます横暴になり、官僚たちはほとんど仇士良に対抗しようとしなくなりました。
文宗は晩年、ほとんど朝議に出席しなくなり。側近に「今の朕は家奴の制限を受けている」と嘆いたと言います。
仇士良が武宗を皇太子にする
文宗には息子がいなかったので兄・敬宗の子 陳王 李成美を太子に決めていました。
楊賢妃と宰相 楊嗣復は皇弟 安王 李溶を皇帝にしたいと考えていました。
手柄を独り占めしたい仇士良は詔を偽造。太子を廃し、兵を派遣して安王の弟、潁王 李瀍を東宮に迎え入れました。
開成5年(840年)。文宗が病死。
仇士良は宰相や重臣の反対を押し切って潁王 李瀍を皇帝に即位させました。禁軍の神策軍を配下にもつ仇士良は、大臣たちよりも力をもっていたのです。
武宗の時代:最初は操っていたものの
武宗 李瀍(り・てん)は決して無能ではなく決断力があり、感情を表に出しません。
でも本来は皇位継承の立場にない人です。仇士良は武宗に恩を売り、武宗も最初は従っていました。
仇士良は楊賢妃や楊嗣復が安王を擁立しようとしたことを理由に陳王・安王・楊賢妃に死を賜らせるよう武宗に要求。武宗も認め陳王・安王・楊賢妃は賜死になりました。
そのため仇士良は二人の皇子と一人の妃を殺害した人物と言われ歴史上も極悪人扱いされています。
さらに仇士良は文宗派の宦官を粛清しました。
武宗の反撃
武宗も自分の即位に反対した宰相を解任。地方に飛ばされていた李徳裕(り・とくゆう)を呼び戻し宰相にしました。
李徳裕は敵対する派閥の官吏を次々に解任。
当時、朝廷は李徳裕の李派と牛僧孺(ぎゅう・そうじゅ)の牛派に分かれて激しく争っていました。
解任された官吏の多くが牛派。
李徳裕は父 に屈辱を与えた牛派を憎んでいますから、李派と牛派の対立は激しくなりました。
仇士良は牛派と親しかったので、徐々に仇士良の味方が減っていきました。
会昌2年(842年)。武装は大赦を発表。仇士良は宰相たちが大赦詔書の中で禁軍の衣食や馬糧の削減を計画していると知り、危機感を持ちます。
仇士良は神策軍の兵士を使って李徳裕に抗議させました。慌てた李徳裕は武宗の所に逃げ込み助けを求めました。
武宗は怒って配下の宦官を派遣。講義する兵たちに「赦書は宰相の意思ではなく自分の意思である」と説明し「反対する者は族滅する」と脅しました。それを聞いた兵士たちは抗議を止めました。
仇士良は兵たちが武宗に従ってしまったので不利だと判断。これ以上騒ぐのは止め謝罪しました。
劉從諫と対立
仇士良が朝廷内で李徳裕と対立していたころ、節度使の劉從諫が仇士良を批判。
仇士良と劉從諫はお互いに批判し合っていました。
劉從諫は武宗の即位を祝うために馬を献上。でも武宗はを受け取りません。劉從諫は仇士良が妨害していると思い怒って馬を殺しました。
劉從諫と朝廷との関係は悪化。武宗は表向きは仇士良を尊重する態度をとっていました。劉從諫は仇士良が武装から寵愛されていることを知り、武宗に取り入ろうとしましたが、できないまま会昌3年(843年)四月に病死しました。
劉從諫は死の間際に養子で甥の劉稹に後を継がせようとしましたが、武宗は拒否、劉稹に領地に戻り喪に服すよう命令しましたが。劉稹は仇士良との対立を理由に戻りませんでした。
仇士良の最期
仇士良の力が強いとはいえ、皇帝の権威があるから効き目があるのです。朝廷の内と外に敵がいる仇士良は武宗を味方にしていないと政敵との戦いも不利になります。
武装はそこをうまくついて仇士良と争わせました。
会昌3年(843年)。すでに宦官としては高い地位につき、家の勢力も取り戻しました。武宗は文宗のようには簡単には操れません。
これ以上皇帝と争っても得るものはなく、負ければすべてを失うと考えた仇士良は高齢を理由に引退。武装は認めました。
仇士良は見送る宦官たちに「皇帝を常に楽しませ、書物を読ませたり、大臣と議論する暇を与えるな」とアドバイスして去っていきました。宦官たちは仇士良に敬意を持って見送ったと言います。
引退から20日後。仇士良は自宅で息をひきとりました。享年62。
もしかしたら仇士良は自分の死期が近いことを悟って引退したのかも知れません。
仇士良の死の翌日。
武宗は仇士良の配下の鄭中丞、張端公ら4人を処刑。
その後。宦官によって仇士良が家に隠していた武器が「発見」され仇士良の爵位は剥奪。財産は没収になりました。
さらに武宗は劉稹を討伐。武装は頭を悩ます宦官勢力と節度使の両方を抑え込むことに成功します。
テレビドラマの仇士良
与君歌 2021年、中国 演:ミッキー・ホー 役名:仇子梁。
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