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李貴人(李常在)乾隆帝の生母になった謎の側室とは?

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

李貴人は清朝の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい)の側室。

李常在ともいいます。

歴史上の李貴人・李常在はとくに目立った存在ではありません。

ところが中国では「乾隆帝の生母」として知られるようになりました。

ドラマ「宮廷の諍い女」「如懿傳」でも乾隆帝の生母として登場します。

歴史上の乾隆帝の生母は孝聖憲皇后 鈕祜祿(ニオフル)氏。李氏ではありません。

史実の 李貴人 はどんな人物だったのか紹介します。

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李貴人 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1760年

姓:李 氏
称号:李貴人
地位: 常在 → 貴人
父:不明
母:不明
夫:雍正帝(ようせいてい)

子供
なし

彼女が生きたのは清王朝の第5代皇帝・雍正帝~乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

生年不明。

両親不明。地位が高い人ではなかったようです。

入宮したのはいつなのかわかりません。

雍正帝時代の妃嬪はよほど地位が高くないと生年や家族などの記録は残っていません。

1729年(雍正7年)。貴人になりました。それまでは常在だったはずです。

1731年(雍正9年5月)。宮中の妃嬪達が参加する行事に出席しました。席順は老貴人、郭貴人の次です。

1735年(雍正13年3月)。このときの儀式にも出席。でもこのときは 李常在 になっています。

いつ、どうして降格したのか分かっていません。

1735年(雍正13年)。乾隆帝即位直後。このときは李貴人に戻っています。後宮での順序は郭貴人、和安貴人の次、海貴人の前でした。

1751年(乾隆16年)。李貴人は寿康宮で暮らしていました。銀100両が支給され、侍女4人がついていました。

1756年(乾隆21年)。このときも李貴人は寿康宮で暮らしていました。銀の支給額も変わらずに100両。侍女の数も変化ありません。

1760年(乾隆25年4月29日)。壽安宮で死去。翌日、入棺。その年の7月に埋葬されました。

李貴人がどのような家に育って、いつ入宮したのか全く分かっていません。身分が高い家でなかったのは確かなようです。入宮後もめだった記録はありません。雍正帝の寵愛をうけることなくひっそりと暮らしていたようです。

乾隆帝時代になっても後宮で暮らしていました。とくに記録もありません。それでも侍女4人がついてます。さすが清の後宮はスケールが違います。

葬儀の記録は残っているのでずっと後宮で暮らしていたのでしょう。

清朝の記録「清史稿」にも「因地位低和無子女而未被」=「地位低く子はいない」と書かれています。

普通なら人知れず後宮で暮らした女性の一人として歴史の中に埋もれてしまっている人だったはずです。

ところが清朝滅亡後。にわかに注目が集まりました。

なぜか乾隆帝の生母になってしまった

乾隆帝には清朝時代から「漢人説」というのがありました。

清朝時代に生きた人も「乾隆帝は素晴らしい皇帝だ」と思っていました。

なにしろ清朝史上最大の領土を持っていたのがこの時代です。乾隆帝時代の清朝の領土を小さくしたのが今の中国の国境。長い中華王朝の歴史でも最大級の領土をもっていました(元はモンゴルの一部)。清朝ドラマが今の中国で人気があるのもこの時代を懐かしんでいるのでしょう。

そして漢民族(漢人)たちの中には「あんなに素晴らしい皇帝が野蛮人の満洲人(女直・女真)のはずがない、漢民族(漢人)に違いない」という差別意識と願望が複雑に入り混じった感情を抱いている人もいました。

そこで乾隆帝の親は漢人だ。母親は漢人だ。という作り話が生まれました。だから野史では乾隆帝の生母は李氏と書かれていることもあります。

中国や朝鮮では、歴史上のできごとではなく作家が勝手に作った歴史や民間に伝わる伝説を集めたものを「野史」といいます。

野史といえば聞こえはいいですがフェイクニュースです。

乾隆帝漢人説は乾隆帝が満洲人から生まれたのが不満な漢人の知識人や反清運動家が作った説です。

清朝・中華民国時代に作ったフェイクニュースを日本の研究者が「清朝の歴史」として紹介していることがあるので注意が必要ですね。

とはいえ。

乾隆帝漢人説に根拠はありませんから乾隆帝の親といわれる人はいろいろです。

その「野史」の中に「宮人の李氏が母親だ」という説がありました。

たまたま雍正帝の側室に「李貴人」がいました。名前からすると満洲人でなさそうにみえます。

現実には遊牧民族・狩猟民族から漢人化した人には「李」を名乗る人も多いです。「唐」を建国した李淵の一族も鮮卑系遊牧民族出身。唐に帰化した李盡忠は契丹人。女真族にも李姓を名乗る人はいました。李氏朝鮮を建国した李成桂は女真の血が混ざった人物。李成桂の義兄弟・李之蘭は正真正銘の女真族です。

遊牧民・狩猟民族出身の李氏やその子孫がいても不思議ではありません。

なので「李」姓だからといって漢民族とは限りません。

でも少なくとも満洲人のようについ最近まで漢人化していなかった人たちではなかったのでしょう。

そこで「李貴人」「李常在」が注目されて「乾隆帝の母に違いない」とされてしまったのです。

このネタは現代になっても何度も使われました。

2011年にTVドラマ化された「宮廷の諍い女 」(原題:後宮甄嬛傅)では

熱河の避暑山荘で働いていた宮女・李金桂と雍正帝の間に生まれたのが弘暦(後の乾隆帝)。という設定になっています。避暑山荘と言っても別荘みたいなものではなくてモンゴルや朝鮮など北方民族相手に政治を行う宮殿です。

2018年にTVドラマ化された「如懿伝」も「宮廷の諍い女」の設定を受け継いでいるので乾隆帝の母は「李金桂」です。こちらでは「李太嬪」と追封されてます。

2012年にTVドラマ化された「宮鎖珠簾」でも乾隆帝の母は李金桂です。

「宮鎖珠簾」では雍正帝の側室・斉妃 李氏(第三皇子・弘時の生母)もミックスされた設定になってるようです。

本人とは関係のないところで注目されてしまった李貴人。
今の様子を知ればどう思うのでしょうか。

テレビドラマ

宮廷の諍い女 2011、中国 役名:李金桂  名前だけの登場
宮鎖珠簾 2012、中国 役名:李金桂 演:李曼
如懿伝 2018、中国 役名:李金桂  名前だけの登場

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