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哲憫皇貴妃 富察氏・乾隆帝の即位前に他界した皇貴妃?

清王妃側室 1 清・金

哲憫皇貴妃 富察氏は清朝の愛新覚羅 弘暦(乾隆帝)の側室。

乾隆帝の第一皇子の生母です。

弘暦の皇子時代からの側室でしたが、弘暦が即位する2ヶ月前に他界してしまいました。死後、乾隆帝によって皇貴妃の位が与えられました。

史実の哲憫皇貴妃 富察氏 はどんな人物だったのか紹介します。

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哲憫皇貴妃 富察氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1735年8月20日

姓:富察氏
称号:哲憫皇貴妃(てつびんこうきひ)
地位:格格 
父:翁果図(ウェングオトゥ)
母:不明
夫:弘暦(乾隆帝)

子供
永璜(定安親王)
皇次女(1731年生没)

清王朝の第5代皇帝・雍正帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

生年は不明。弘暦よりも年上だったかもしれません。

噶哈里和羅舍林村富察氏の出身です。
富察姓ですが、孝賢純皇后(弘暦の正妻、満洲鑲黄旗人)とは別の一族出身です。

父は翁果図(ウェングオトゥ)
満洲正黄旗の佐領(正四品)
旗人(支配階級)に仕える包衣(使用人)のリーダーです。

1725年(雍正3年)。内務府の選秀女で選ばれました。選秀女とは順治帝の時代から始まった制度で、旗人の中から適齢期の女子を選んで宮殿入れる制度です。集められた女子の中から皇帝や皇子の妃・側室が選ばれます。

雍正帝の第四皇子・弘暦の格格(ゲゲ=妾)になりました。

富察氏は頭がよく慎重な性格だったと言います。宮中内の仕事も要領よくこなしたので評判が高かったようです。

1728年(雍正6年)。弘暦の長男・永璜を出産。

富察氏は「勝妾」の地位になりました。勝妾は他の妾よりも高い地位にあり。正妻が死亡したり子を産まない場合。正妻と同等の権利をもちます。

1731年(雍正9年)。弘暦の次女を出産。

1735年8月20日(雍正13年7月3日)。富察氏が死去。詳しい年齢はわかりませんが、このとき20代でした。

この2ヶ月後。

1735年10月8日。雍正帝が死去。弘暦が皇帝になります。

富察氏が亡くなったのは弘暦が皇帝に即位するわずか2ヶ月前のことでした。

弘暦(乾隆帝)は即位すると富察氏に「」の位を与えました。

1736年(乾隆元年)。乾隆帝は「哲妃」の称号を与えました。

1745年(乾隆10年)。哲妃の息子・永璜に子供が生まれました。乾隆帝の孫の誕生です。乾隆帝は富察氏に「皇貴妃」の位と「哲憫」の諡号が与えられました。

乾隆帝が即位する前に亡くなった側室は他にもいます。でも皇貴妃という高い地位を与えられた人は他にいません。それほど重要な妃だったのでしょう。

テレビドラマ

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国

登場場面はありませんが名前は何度か出てきます。皇女の出産後、死亡しました。誰かに殺害されたわけではありません。でもドラマの中では格格富察氏の死因を巡って様々な憶測がとびかっています。 

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