儀嬪 は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の側室。
「瓔珞<エイラク>」では 怡嬪
「如懿傳」では 儀貴人・黄綺瑩 として登場します。
愛新覚羅 弘暦の親王時代からの側室です。弘暦が皇帝になったあとも存命していました。儀嬪の正式な任命式を受ける前に1年で病死しました。
弘暦が即位前に死亡した側室には哲憫皇貴妃 富察氏がいます。皇帝に即位したあとに亡くなった側室では儀嬪が最初です。
史実の 儀嬪 はどんな人物だったのか紹介します。
儀嬪 の史実
いつの時代の人?
姪:不明
称号:儀嬪
地位: 格格 → 儀嬪
生年月日:不明
没年月日:1735年
家族
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)
子供:なし
清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
儀嬪の生年は不明。
父は黄 戴敏。
円明園(清朝の離宮)の額外副総領を務めていました。位は七品。
包衣管領下人。包衣(ボーイ)とは満洲旗人(貴族)に代々使える奉公人。身分が固定されていて、包衣の子は包衣です。主人と包衣には絶対的な主従関係があります。執事や使用人など家の雑用を担当します。
ドラマではよく「奴婢」と翻訳されることがあります。中華王朝によくある奴婢とは違います。旗人に仕える包衣の社会的な地位は低くありません。むしろ一般的な漢人の庶民よりも地位は上です。奴婢は包衣とは別に存在します。
黄氏の家系も満洲貴族に仕える包衣です。
1727年(雍正5年)。雍正帝の第四皇子・弘暦が正妻の富察氏と結婚しました。
このとき弘暦には8~9人の格格(ゲゲ=妾)がいたといいます。
黄氏はそのなかの一人だったようです。同じころに格格だった人には金氏、海氏、陳氏などがいます。
黄氏は王府でよく縫い物や刺繍をしていました。「習嫺女史」と書かれているので、熟練の技を持っていたようです。
1731年(雍正9年)。出産したようですが、黄氏に子供がいたとは書かれていません。流産したようです。
乾隆帝の時代
1731年(雍正13年)9月。雍正帝が死去。寶親王 弘暦が皇帝になりました。乾隆帝の誕生です。
黄氏は「格格」から「嬪」に昇格しました。
皇帝の側室には「常在」や「貴人」などがありますが、それらを飛び越えていきなり「嬪」になりました。
でもこのときはまだ正式な任命ではありません。一時的に「黄嬪」とよんでいました。
また内務府の包衣管領に黄氏の実家が任命されました。包衣たちを統率するリーダー的な役職です。
9月25日。皇后富察氏や、貴妃高氏などが祭祀に出席するため車をならべてでかけました。でもこのとき黄氏は病気だったので出席していません。
乾隆元年の正月の儀式にも黄嬪は出席しませんでした。
9月から年末の間に黄氏は死亡したようです。
1736年(乾隆元年)。黄嬪に正式に「儀嬪」の称号が与えられました。
1737年(乾隆2年)。儀嬪の父・戴敏に圓明園額外副總領一職の役職が与えられました。
1748年(乾隆11年)。乾隆帝の妃嬪たちを葬る裕陵が完成。儀嬪は裕陵に葬られました。
テレビドラマの儀嬪
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜
2018年、中国
怡嬪の名前で登場。物語序盤で死亡しました。歴史上の怡嬪は長生きしているので名前と一致しません。儀嬪と怡嬪の経歴を足したような設定になっています。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~
2018年、中国
最初は嫡福普・富察氏の侍女でした。弘暦の側室になり「儀貴人」の位を与えられます。その後流産。療養中に死亡しました。死後「儀嬪」の位を与えられた事になっています。
歴史上はいきなり「嬪」になっているので位は違います。「儀嬪」の描かれ方は「瓔珞」よりも「如懿伝」の方が史実に近いです。
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