孝恵章皇后ボルジギト氏は中国史上最も在位期間の長い皇太后

大清1.8 清・金

孝恵章皇后は清朝の第3代皇帝順治帝の正室。

康煕帝の時代には仁憲皇太后と言われました。

でも康煕帝の生母ではありません。前皇帝・順治帝の皇后なので皇太后になりました。

順治帝が死去した1618年から、自身が死去した1718年までの間、皇太后の座にありました。中国史上最も在位期間が長い皇太后です。

孝恵章皇后はどのような人物だったのか紹介します。

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孝恵章皇后の史実

いつの時代の人?

生年月日:1641年11月5日
没年月日:1718年1月7日

姓 :博爾済吉特(ボルジギット)氏
名称: 阿拉坦其其格(アラタン キキゲ)

国:大清
地位:妃→皇后→皇太后
称号:仁憲恪順誠惠純淑端禧皇太后

(おくりな):孝恵仁憲端懿慈淑恭安純德順天翼聖章皇后
長いので「孝恵章皇后」といいます。

父:綽爾濟
母: 阿巴泰の娘
夫:順治帝

子供:なし

彼女は清朝3代皇帝順治帝の正室です。

日本では江戸時代の人物になります。

モンゴルの名家に生まれる

1641年。孝恵章皇后はモンゴル・ホルチン部で生まれました。

父は綽爾濟・扎薩克(サザク)。

サザクとはモンゴル語で「統治する者」の意味。皇帝から任命されて部族を束ねるリーダーのようなものです。その多くはチンギス・ハーンの子孫です。

本名は アラタンキキゲ(阿拉坦其其格)アラタンキキゲはチンギスハーンの血を受け継ぐ家系に生まれました。

清の皇后になる

1653年(順治10年)。順治帝は正室・エルデニブンバ(額爾德尼布木巴)皇后を廃位させました。贅沢好きで嫉妬深かったといわれます。少なくとも順治帝は嫌っていました。

1654年(順治11年)。アラタンキキゲは順治帝に嫁ぎ、妃になりました。このとき14歳でした。

翌月皇后(孝恵章皇后)になりました。

孝恵章皇后が選ばれたのはチンギスハーンの血を受け継ぐモンゴルの名家出身だからといわれます。というのも、遊牧騎馬民族の間ではチンギスハーンの家系はとても高貴な家系とされていました。満洲族の王室ではチンギスハーンの子孫から妃を迎えるのはとても名誉なことだったのです。

孝恵章皇后は正直すぎてお世辞を言うのが苦手でした。順治帝の心を掴むことができなかったようです。宮中に入ってからも順治帝には嫌われてました。

順治帝は最初の正室も廃しました。どうも気難しい性格だったようです。

でも昭聖皇太后からは可愛がられていました。

順治帝は1656年に入宮した 董鄂(ドンゴ)氏を寵愛するようになります。すぐに賢妃になりました。さらにその後、皇貴妃へと昇格します。

1658年(順治15年)正月。昭聖皇太后が体調を崩しました。順治帝と皇貴妃・董鄂氏が看病しました。

順治帝は孝恵章皇后が皇太后の看病を怠ったとして廃位を決めます。

でもそれを知った昭聖皇太后が孝恵章皇后の廃位を辞めさせました。このとき皇貴妃董鄂氏も皇太后とともに孝恵章皇后の廃后に反対しました。

孝恵章皇后が皇太后に対して、本当に失礼なことをしたのなら昭聖皇太后が怒るはずです。でも皇太后は孝恵章皇后をかばいました。

順治帝は孝恵章皇后を廃する名目が欲しかったようです。

1660年(順治17年)。 董鄂氏が死去。順治帝は落胆しました。悲しみのあまり出家するとまで言い出します。

孝恵章皇后への態度とはかなり違います。

1661年(順治18年)。順治帝は天然痘で死去。24歳の若さでした。

21歳の仁憲皇太后

順治帝の死後、息子の玄燁が即位しました。康熙帝の誕生です。

康煕帝は祖母の昭聖皇太后を昭聖太皇太后に、生母の佟妃を慈和皇太后にしました。そして 孝恵章皇后に「仁憲皇太后」の称号を与えました。21歳の皇太后が誕生しました。

仁憲皇太后は 居慈仁宮 を与えられそこで暮らし、康煕帝の第五皇子・胤祺を育てました。

1674年(康熙12年)。仁憲皇太后の妹で順治帝の妃だった淑惠妃が皇考淑恵妃になりました。

1680年(康熙19年)。仁憲皇太后は40歳の誕生日を迎えました。康煕帝は珍しく公務を休み、仁憲皇太后の誕生日を祝うパーティーを開きました。昭聖太皇太后や皇太子胤礽や他の王族たちも集まって仁憲皇太后の誕生日を祝いました。

1688年(康熙26年)。昭聖太皇太后が死去。75歳でした。康熙帝親子は悲しみました。そして、自分を可愛がってくれた太皇太后の死に仁憲皇太后は立ち上がれずに泣いていました。

1689年(康熙28年)。寧壽宮が完成。仁憲皇太后が移り住みました。このとき康煕帝は大臣たちをひきつれ皇太后を案内しました。

1696年(康熙35年)。康煕帝は北巡しました。このとき仁憲皇太后の誕生日と重なったので、行幸先から手紙を贈りました。

1699年(康熙38年)。康煕帝は南巡しました。このときは仁憲皇太后を同行させました。

その後、仁憲皇太后の60歳、70歳の誕生日にお祝いの言葉を贈りました。時には仁憲皇太后は倹約のため「パーティーをしないように」と康煕帝に言うこともありました。

とはいっても康煕帝は何もしないわけにはいかなかったのでしょう。70歳の誕生日には仁憲太后宮で晩餐会を開き康煕帝が出席しました。

その席で康煕帝は「蟒式舞(満洲の伝統的な踊り)は満洲で盛大な宴の場で行われます。かつては全ての王や大臣が出席していました。今年、皇太后は70歳になりました。私は57歳になりました。私が踊りましょう」といって踊りました。

 

1718年1月7日(56年12月)死去。享年78。康煕帝は「孝恵」の名を贈りました。

その後、順治帝の諡をとって孝恵仁憲端懿慈淑恭安純德順天翼聖章皇后」の名が贈られました。
長いので普通は「孝恵章皇后」といいます。

モンゴルからやって来たアラタンキキゲはチンギスハーンの血を受け継いでいるという理由で皇后になりました。素直すぎる性格がもとで順治帝には嫌われましたが。昭聖皇太后からは可愛がられ。康煕帝からも実の母のように慕われました。

21歳という若さで皇太后になり。78歳で死去するまで57年皇太后の座にありました。中国史上最も在位期間の長い皇太后でした。

 

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