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顕徳王后権氏 怨霊になったと噂された王妃

2 李氏朝鮮の妃・側室

 

顕徳王后権氏は李氏朝鮮第5第国王文宗の正室。

実際には王妃になる前に他界したので生前は王妃の扱いは受けていませんでした。

死後、顕徳王后に追尊されました。

史実の顕徳王后権氏どんな人物だったのか紹介します。

 

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顕徳王后権氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1418年
没年月日:1441年

名前:不明
本貫:安東権氏
称号:顕徳王后(ヒョンドンワンフ、けんとくおうこう)、顕徳嬪
父:権専
母:崔阿只
夫:文宗
子供:
長女 1433。早世
次女 敬惠公主、1436〜1473
長男 端宗、1441〜1457

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に4代世宗の時代です。

日本では室町時代になります。

おいたち

1431年。権氏は王世子・李珦(後の文宗)の後宮に入りました。最初の位は承徽。その後、良媛に昇格しました。

李珦にはすでに2人の世子嬪(徽嬪金氏、純嬪奉氏)がいました。しかし2人は行いが悪かったため世宗によって廃されました。

1437年。権氏は世子嬪になりました。

世子は寵愛していた洪氏を世子嬪にしたかったようです。しかし世宗はすでに2人の子供を産み年長者だった権氏を優先して世子嬪にしました。

1441年。長男・李弘暐を出産。しかし3日後に死亡しました。享年24。死後、顕徳嬪の称号が与えられます。

1450年。文宗が即位。追尊されて顕徳王后となりました。

廃妃になった顕徳王后

端宗は王の座を失い上王になりました。しかし端宗の関係者は再び王にしようと活動しました。

1456年。顕徳王后の母・阿只と弟の権自慎は成三問らとともに活動を行いました。しかし彼らは捕まり処刑されます。

この事件がきっかけで翌年、端宗は廃位され魯山君に降格されました。

すでに死亡していた顕徳王后は廃妃に、父・権専は平民に降格になります。すでに死亡した人物でも罰を与えるのが朝鮮のやり方です。

1513年。中宗の時代。顕徳王后は名誉回復され再び王妃になりました。
1699年。粛宗の時代。父・権専が名誉回復しました。

 

怨霊になった?顕徳王后

顕徳王后が音量になって世祖の長男・懿敬世子を殺したという噂話があります。

1455年。首陽大君は端宗に譲位を迫り、自ら即位して世祖になりました。

1457年9月20日。世祖の長男・懿敬世子が死亡しました。

このとき懿敬世子が死んだのは顕徳王后の呪いだと噂されたといいます。そのとき怒った世祖は顕徳王后の墓を暴いて柩を川に捨て、遺体を燃やして川に捨てたと噂されました。

しかし端宗が死亡したのは1457年11月11日。懿敬世子よりも後です。端宗が死んだから母の顕徳王后の霊が呪いをかけた。だから懿敬世子が死んだというのは順序としてはおかしいです。

しかし懿敬世子と端宗の子は1~2ヶ月しか離れていません。後の時代の人からみるとほぼ同時に死んでいると思えます。そもそも庶民が正確に王族の死の月日を知っているはずがありません。だから顕徳王后の呪いで死んだという噂話ができたのでしょう。

ドラマ

大王世宗 KBS 2008年

 

 

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