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ミン・ムグ、ムジル:太宗に粛清された王妃 閔氏の兄弟の史実

閔無咎(ミン・ムグ)・閔無疾(ミン・ムジル)は朝鮮王朝初期の外戚。太宗の王妃・元敬王后の兄弟です。

功臣となって政権に関わり太宗との対立に巻き込まれていきます。

この記事では閔無咎(ミン・ムグ)無疾(ムジル)兄弟の生涯や彼らをめぐる権力闘争、弾劾から最期までを史料をもとにわかりやすく紹介します。

この記事で分かること

  • 閔無咎・閔無疾兄弟の家系やプロフィール
  • 王子の乱をはじめとした兄弟の功績と権力拡大の様子
  • 弾劾や流罪に至るまでの背景と具体的な経緯
  • 兄弟の最期

 

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ミン・ムグ、ムジル兄弟とはどんな人?

太宗の王妃・元敬王后の兄弟

閔無咎(ミン・ムグ)と閔無疾(ミン・ムジル)は朝鮮王朝初期の人物。太宗の王妃・元敬王后の実の弟たちです。

この2人は王妃の実家ということで朝廷でも存在感があり、とくに世子(譲寧大君)と親しく大きな影響力がありました。ただ、その存在が次第に太宗との衝突を深めていくきっかけにもなっていきます。

1407年に「権力の乱用」などで弾劾が始まり臣下からの処罰要求が続きます。最終的に済州島へ流され、1410年に王命で自死となりました。

ミン・ムヒュル、ムフェとは別の兄弟

元敬王后の弟には閔無恤(ミン・ムヒュル)・閔無悔(ミン・ムフェ)もいます。ただし彼らは1415〜1416年の別の弾劾で犠牲になります。

この記事で紹介するのは、太宗初期の1407年に弾劾が始まって1410年に終わる無咎(ムグ)・無疾(ムジル)に絞って説明します。

 

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閔無咎・閔無疾の生涯

 

閔無咎(ミン・ムグ)プロフィール

  • 姓名:閔無咎(ミン・ムグ)
  • 生年:1369年。
  • 没年:1410年(太宗10)
  • 父:閔霽
  • 母:礪山宋氏
  • 関係:閔霽の長男、元敬王后の実兄

閔無咎は太宗の即位に貢献、「功臣」「王妃の実家」となり発言力が大きくなりました。

その一方で、政敵からは警戒され弾劾の標的になります。弾劾が続いた末に済州島へ流され1410年に賜死に追い込まれました。

閔無疾(ミン・ムジル)プロフィール

  • 姓名:閔無疾(ミンムジル)
  • 父:閔霽
  • 母:礪山宋氏
  • 生年:不明。
  • 没年:1410年(太宗10)
  • 関係:元敬王后の実弟(閔無咎の弟)

閔無疾は兄・閔無咎と一緒に弾劾される事が多いです。処罰要求は約3年続き、最後は済州島で王命により賜死しました。

 

別の弟たち(閔無恤・閔無悔)との違い

閔氏一族には、閔無恤(ミン・ムヒュル)や閔無悔(ミン・ムフェ)という弟たちもいます。

『朝鮮王朝実録』によると、彼らもやがて弾劾され1415年から1416年にかけて自決を命じられました。ただし、これは閔無咎・閔無疾兄弟とはまったく別の事件です。

この記事では1407年の弾劾から1410年の自死命令までの閔無咎・閔無疾兄弟を中心に説明します。

 

李褆との間に深い関係が生まれる

閔無咎・閔無疾の姉は太宗 李芳遠の正室・閔氏

1394年。姉・閔氏と李芳遠の間に李褆(イ・ジェ)が誕生。後に世子/譲寧大君となる人物です。

それまで閔氏は3人の男子を出産していましたが、いずれも幼くして死亡。成人したのは李褆が最初なので李褆が長男として扱われます。

李褆は閔氏の実家で育てられました。

そのため無咎・無疾・無恤・無悔の兄弟たちとは親しくしていました。でもこのころの李芳遠はまだ靖安君とよばれており王族のいち員です。王子の乱も起きていません。李褆もまだ王族の一人にすぎませんでした。

 

閔無咎・閔無疾兄弟が力を付けた経緯

第一次・第二次王子の乱で李芳遠が権力を握り、国王に即位。閔無咎・閔無咎らが功臣となると彼らの朝廷内での地位も上がります。

閔無咎・閔無疾の実績

閔無疾は1398年の第1次王子の乱で功を立て、定社功臣(2等)になります。

1400年:第2次王子の乱でも功績をあげて佐命功臣(1等)になり、驪城君になります。

さらに左軍総制(軍の指揮官)や 右軍都総制を務め。 謝恩使として明へ行ったこともあります。

閔無咎も王子の乱で手柄をたてて功臣となりました。

閔無咎・閔無疾はドラマではよく一緒に登場することが多いです。兄が閔無咎(ミンムグ)、弟が閔無疾(ミンムジル)と覚えておきましょう。

 

太宗即位後に閔兄弟への告発が起こる

1402年。李褆は元子(明の承認はまだだが国内では王位後継者)になりました。元子の後ろ盾となっている閔兄弟はますます影響力が大きくなります。

同じ年。太宗が腫れ物(瘡腫)で苦しんでいた時、閔氏兄弟が病状を探り、幼い嫡子を立てて実権を握る計画を立てた、という告発がありました。ただしこのときは太宗も問題にはしていません。

でも閔氏兄に警戒する者がいたことが分かります。

李褆が世子になり閔氏兄弟の影響力が拡大

1404年。李褆が王世子になりました。閔無咎・閔無疾兄弟は「世子に最も近い外叔」となり存在感を増していきます

太宗も閔氏勢力の影響力拡大は無視できなくなっていったと考えられます。

1406年 太宗が譲位を宣言

1406年。太宗は当時13歳の世子・李褆に譲位すると宣言しましたが、本気で王位を渡すつもりはなかったと見られます。

これは幼い世子を即位させると宣言することで、外戚や重臣たちの本心や動向をあぶり出し、特に閔無咎兄弟ら外戚や臣下の反応を知ろうとしたのでしょう。

結局、臣下の反対で太宗は譲位を取り消したのです。

このときは問題になりませんでしたが、後でこのときの対応が問題になります。

閔氏主導で世子と明の皇女との縁談が議論される

1407年。閔無咎の家で河崙・趙璞・鄭矩らとともに「世子(李褆)と明の皇女の縁談」を進めようと話し合いました。縁談は議論しただけで実現はしませんでした。

しかし国家の重要な婚姻問題が閔氏の屋敷で行われることに太宗に強い不信感を持ち、閔氏の勢力拡大を疑う一因になりました。

 

閔兄弟への弾劾が起きる

1407年旧暦7月。朝廷で台諫の改編が行われその6日後に領議政府事の李和たちが閔兄弟を弾劾しました。

ここで突然弾劾が起きたのではなく、1406年からの不満と疑いが積み上がり、1407年の人事改編で弾劾できる体制が整って、今回の弾劾に繋がったと考えられます。

 

弾劾の内容

李和の弾劾の内容は要約すると以下の通り。
  1. 王妃(元敬王后)の力を背景に権力を握ろうとした。
  2. 反乱の意図があった。
  3. 1406年の譲位騒動で閔無咎・閔無疾らだけが喜び。太宗が復位した時は逆に落胆の表情をした。
  4. 「世子以外の王子は少なくてよい」という趣旨の発言をした。
  5. 閔無疾が「殿下(王)は我らを信用しないのではないか」と不満・疑念を漏らした。
  6. 側近(辛克禮)とともに王家内部に分裂や不和をもたらすような発言・行動をした。
  7. 「王子が多いと乱れる」「英気のある王子は必要ない」などの発言。
(出典:『朝鮮王朝実録』太宗実録・太宗7年7月10日条)
弾劾は一度で終わらず、処罰要求が続きます。

この弾劾を受けて太宗は閔無咎・閔無疾兄弟を捕らえ流罪にします。

 

父・閔霽が身代わり

弾劾が激しさを増す中、閔無咎・閔無疾兄弟の父 閔霽が自ら進んで「息子たちの罪を自分が背負う」と申し出ます。

太宗は「功臣の家系なので命までは奪えない」と言って閔霽を流配(地方追放)にしました。

しかし1408年に閔霽が危篤となり亡くなると、兄弟への弾劾が再び激しくなります。

 

1408〜1410年:流配の長期化と新たな罪状の積み上げ

この期間、閔無咎・閔無疾兄弟は一度は流罪(地方追放)となり、流配先も何度か移されました。

しかし朝廷では「これだけでは不十分」として、弾劾のたびに新しい罪状(他人の家での不遜な発言や、反乱分子との関与疑惑など)が追加されていきます。

 

閔無咎・閔無疾兄弟の最期

1410年には、李茂(イ・ム)事件と趙瑚(チョ・ホ)の乱言事件という2つの事件が発生します。

李茂は閔氏兄弟に罪はなく陥れられたと発言。李茂は処刑され、閔無咎・閔無疾は済州島に移動となりました。

李茂事件では兄弟の影響力が依然として残っているとの疑いが強まりました。

趙瑚の乱言事件では最期まで趙瑚は自白せずに獄中死。具体的な罪状も明らかにされていませんが。王に逆らう言葉だったとされ、太宗は「罪を論じるなら大逆に至る」と言って問題視し趙瑚の遺体を車裂きの刑に処します。

この趙瑚の発言は王に逆らう内容だったらしく、臣下たちは閔兄弟をこれ以上は活かしておけないという意見が強くなります。これらの事件を受けて太宗は最終的に「済州に流されていた閔無咎・閔無疾兄弟に自決を命じる」という決断を下します。

1410年3月、兄弟は済州島で賜死となり、閔氏兄弟事件は終結しました。

ドラマのミン・ムグ、ムジル兄弟

『大王世宗』でのミンムグ、ムジル

序盤(1407年頃)で粛清

『大王世宗』では物語の序盤、3~5話(1407年ごろ)でミンムグ・ムジル兄弟の暗躍と粛清事件が起こります。

この作品は「世宗の生涯」を描くドラマですが、前半では太宗の治世を通して、王位継承や王室の内紛、外戚排除など、重要な歴史事件が連続して起こります。

ムグ・ムジル兄弟関連の出来事はドラマ序盤の1話から6話あたりで起こります。この時期はまだ主人公の世宗(忠寧大君)が幼く。世子も若い。実際の主導権は父・太宗にあります。

ムグ・ムジル兄弟は世子を王につけようと企み。一方では賄賂をとって商人に利権を横流し私腹を肥やしています。

4話で忠寧大君を落としれるため偽の文書を作成。しかし5話では事実を知った世子に剣を向けられ彼らの罪が暴かれムグ・ムジル兄弟が失脚します。

史実では弾劾文の中でのみ語られるミン兄弟の悪評が、ドラマでは実際に彼らが悪事を働いていたことになっています。

 

さらに1406年の太宗の譲位宣言、1407年の弾劾・逮捕がドラマでは4~5話で一気に描かれています。

ドラマ序盤での忠寧大君の危機を作った人物として登場したのがムグ・ムジル兄弟なのです。

 

『太宗 イ・バンウォン 龍の国』でのミンムグ、ムジル

『太宗 イ・バンウォン 龍の国』ではるミン・ムグとミン・ムジルは最初からバンウォンの味方として描かれ、彼が王になる過程でミン氏の勢力が大きな支えとなります。

でもバンウォンが王になった直後に元敬王后(ミン氏)が「これからは一緒に歩んでいきましょう」と声をかけますが、バンウォンは「王になったつもりか」と激しく怒り、「これからは臣下と思え」と突き放します。

ここで同盟関係は終わり、ミン氏一族は家来扱いとなります。

その後、バンウォンは私兵の廃止と国軍の統一を進めましたがミン氏一族や他の臣下は反対(21話)。

さらにミン氏の実家にいた侍女キム氏がバンウォンの子を妊娠、ミン氏側が出産を妨害しようとした事件が起きます。この一件でバンウォンの怒りは頂点に達し、ミン一族への弾圧の準備が始まります。

ミン・ジェ(父)も状況を察して兄弟に警告を与えます(22話)。太宗はあえてミン兄弟に兵権を与えて油断させ、側近に監視させて失点探しをさせます(26話)。

決定的なきっかけは酒席でミン兄弟が太宗の譲位を喜ぶような発言をしたことです。このことが太宗に報告され兄弟は逮捕。すぐに処刑されるのではなく、まず流配が命じられ、王妃や世子も巻き込みながら最終的には第28回で太宗の命令で賜死となります。

このドラマではミン兄弟は多少の慢心はあるものの悪い外戚ではありません。彼らの最期はバンウォンが王権を守るために味方だった者ですら容赦なく切り捨てる冷酷な決断の象徴として描かれているのです。

 

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関連する人物や事件の背景を知ることでドラマ『太宗 イ・バンウォン』や史実の理解がさらに深まります。気になるテーマがあれば、ぜひ併せてご覧くださいね。

 

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重臣
この記事を書いた人

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
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