慎守勤(シン・スグン)燕山君の義兄で中宗の義父、板挟みなって下した決断の結果は?

2018年11月6日

慎守勤(シン・スグン)は燕山君の義理の兄で、中宗の義理の父です。

妹が燕山君と結婚して王妃になったおかげで慎守勤は高い地位を得ました。
娘も王族の普城大君(後の中宗)に嫁がせるなどこのまま一族の栄華が続くかに思われました。

しかし燕山君に不満を持つ人達が反乱を起こしたことで人生は終わります。そればかりか娘まで不幸な目にあってしまうのです。

史実の慎守勤(シン・スグン)はどんな人物だったのか紹介します。

慎守勤(シン・スグン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1450年
没年月日:1506年

名前:慎守勤(シン・スグン)
称号:
父:慎承善
母:貞敬夫人李氏
妻:権擥(クォン・ラム)の娘

子供
端敬王后愼氏
他に三男一女。

彼が活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に10代燕山君の時代です。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

父は領議政をつとめた 慎承善。
母は臨瀛大君の娘。臨瀛大君は世宗の4男です。

妻は権擥(クォン・ラム)の六女。権擥は首陽大君(世祖)に仕え、クーデターに協力し功臣となって高い権力を得ていました。

王族の血をひき、功臣の娘を妻にするという恵まれた環境にあったのです。

成宗の時代、蔭位(試験をせず、推薦で採用してもらうこと)によって役人になりました。

1487年。妹が燕山君(当時は世子)の正室になりました。

慎守勤は都承旨(正三品)になりました。その後も、吏曹判書(正二品)、右賛政(従一品)、右議政(正一品)、左議政(正一品)になりました。

燕山君の外戚となっ慎守勤は朝廷内で出世を重ねます。

1499年。娘が普城大君(後の中宗)と結婚しました。
燕山君と普城大君(チンソンテグン)の仲は悪くなかったので、燕山君と親しい慎守勤の娘が普城大君の結婚相手に選ばれたようです。

慎守勤は燕山君の信頼の厚い任士洪(イム・サホン)らとともに敵対する者を排除。燕山君のもとで大きな力を得ました。

1506年。燕山君に左遷されていた朴元宗(パク・ウォンジョン)たちは領議政の柳洵たちと手を組み、反乱を起こして普城大君を王にしようと考えました。

しかし朴元宗たちの反乱が成功するかどうかは、慎守勤にかかっていました。慎守勤は燕山君の義兄弟であると同時に普城大君の義理の父でもあったからです。慎守勤が妹をとるか娘をとるかで、土壇場でひっくり返る可能性もあったのです。

そこで朴元宗は慎守勤と会って協力を求めてきました。しかし慎守勤は「義理の息子のため、義理の兄弟を裏切ることはできない」と断りました。

朴元宗としては謀反の計画を知られた以上、いかしてはおけません。

慎守勤は任士洪とともに、朴元宗が派遣した武官の辛允武によって殺害されました。

朴元宗たちの起こした反乱で燕山君は廃され、娘婿の普城大君が王になりました。それが中宗です。

娘の慎氏は王妃になりました。しかし慎守勤の娘だということでわずか7日で廃妃になってしまいました。

慎守勤は娘婿よりも義弟を選んだことになります。燕山君は確かに多くの人を殺しやりたい放題でした。燕山君のおかげで慎守勤が力を得て朝廷で高い地位に入られたのも事実。朴元宗たちの謀反が成功して娘婿が王になったとして、今のような権力が保てるとは思わなかったのかもしれません。

慎守勤と妹の慎氏は英祖の時代に名誉は回復しています。「愼守勤は圃隱(ポウン)と同様に忠義者だ」とひょうかされました。圃隱は高麗王朝末期。李成桂の反乱に反対して高麗王朝を守ろうとした重臣です。しかし儒学者を多く育てたので李氏朝鮮時代になっても忠義者として慕われていました。

結果としてクーデターにあって殺害はされたものの、圃隱と同じように忠義を尽くして死んだと評価されたのです。

テレビドラマ

ハンミョンフェ KBS 1994年 演:イ・ギチョル
チャンノクス  KBS 1995年 演:イム・ビョンギ
王と妃 KBS 1998年 演:チェ・サンフン
王と私 SBS 2007年 演:キム・サンウォン
インス大妃 JTBC 2011年 演:ユ・ジョンソク
 7 日の王妃 KBS 2017年 演:チャン・ヒョンソン


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