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閔鎮遠(ミンジノン)は実在する?老論重臣の史実と家系図を紹介

ミン・ジノン(閔鎭遠:1664〜1736)は、朝鮮王朝の粛宗・景宗・英祖の三代に仕えた老論派の重臣です。父は西人派の重鎮・閔維重、妹は粛宗の正室として知られる仁顕王后で、『ヘチ 王座への道』に登場する老論の大物ミン・ジノンのモデルになった人物です。

この記事ではミンジノンの家系図と彼がどんな生涯を送り、ドラマとはどこが同じでどこが違うのかを史実をもとに紹介します。

この記事で分かること

  • ミン・ジノン(閔鎭遠)は粛宗〜英祖期に実在した老論の重臣であること
  • 父・閔維重、兄・閔鎭厚、妹・仁顕王后らとともに、「閔一門」が西人派・老論の中枢として朝廷政治を支えたこと
  • 辛壬士禍や李麟佐の乱などの党争の大事件で、ミン・ジノンは何をしたか。
  • ドラマ『ヘチ』での描写と史実の共通点と脚色

 

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ミンジノンは実在した人物?

韓国ドラマ『ヘチ 王座への道』に登場するミンジノン(閔鎭遠)は実在の人物です。

閔鎭遠の名前は『粛宗実録』『景宗実録』『英祖実録』といった朝鮮王朝の正史に登場。そこには科挙に合格した年、どの官職を歴任したか、どのような事件でどのような意見を述べたかといった記録が具体的に残されています。

また上申文や意見書をまとめた「丹巖奏議」、王権と家門の在り方について論じた「加足帝腹論」などの著作も伝わっています。

史実のミンジノンは老論強硬派として英祖の蕩平策に反発。辛壬士禍や李麟佐の乱といった事件に深く関わりました。

また老論の代表として景宗期の世弟擁立や英祖期の政治路線に大きな影響を与えています。

ドラマ『ヘチ』のミンジノン、こうした史実の閔鎭遠をもとにしてドラマむけに脚色したものです。ここからは、史実の閔鎭遠がどのような生涯を歩んだのかを紹介します。

 

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閔鎭遠(ミン・ジノン)の史実

閔鎭遠(ミン・ジノン)は李氏朝鮮王朝の粛宗から英祖時代の重臣です。名前が表によく出るのは英祖時代ですが、景宗時代から老論派の実質的なリーダーでした。

いつの時代の人?

  • 名前:閔鎭遠(ミン・ジノン)
  • 生年月日:1664年
  • 没年月日:1736年

彼が活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

  • 父:閔維重
  • 母:恩津宋氏
  • 兄:閔鎭厚
  • 妹:仁顕王后
  • 妻:李德老の娘
  • 子供:閔翼洙、閔遇洙

ミンジノンの人生を理解するには、「一人の政治家」というよりも「閔一族の一員」として見る方が分かりやすいです。父は西人派の中心人物、兄は老論のリーダー、妹は粛宗の正妃というように、家族そのものが朝廷政治の中心にいました。

仁顕王后が王妃の座にある間は西人派と閔一族が外戚として権勢をふるい、廃妃になると一族も冷遇される。こうした大きな波をミンジノンは若い頃から間近で体験していたことになります。

ミンジノンの家系図

ミンジノンは驪興閔氏の一族。李王家とは縁のある一族です。一族には太宗の正室・元敬王后がいます。ミンジノンの妹は粛宗の正室・仁顯王后。兄の子孫は高宗の正室・明成皇后。ミンジノンの子孫には純宗の正室・純明孝皇后がいます。

驪興閔氏とミンジノンの家系図
妹には粛宗の正室仁顯王后がいる

ミンジノンの家系図

また高宗の父・興宣大院君の母や正室も驪興閔氏の出身です。

 

父・閔維重とは?西人派の重鎮で仁顕王后の父

閔鎭遠(ミン・ジノン)の父・閔維重(ミン・ユジュン)は、西人派を率いた大物政治家です。兵曹判書や戸曹判書など、軍事・財政の要となる官職を歴任し、粛宗前半期の政治を支えました。単に高位の官僚というだけでなく、党派の方向性を決める「顔」として機能していた人物です。

もう一つ重要なのが、仁顕王后の父である点です。仁顕王后は粛宗の正室として知られ、張禧嬪との壮絶な王妃交代劇で有名になりました。仁顕王后が王妃の座にある間、西人派は外戚として権勢をふるい、彼女が廃妃になると西人派もいっしょに追い落とされる、という浮き沈みを経験しました。

閔鎭遠(ミン・ジノン)にとって父・閔維重は「学問と人脈を受け継いだ師匠」であると同時に、「政治の浮き沈みを家族ごと引き受ける運命の出発点」でもありました。

 

兄・閔鎭厚と「老論一門」

ミンジノンには兄の閔鎭厚(ミン・ジヌ)がいました。閔鎭厚も高官として活躍、西人派から分かれた老論の事実上のリーダーとみなされていました。仁顕王后の兄たちが党派の中心にいたため「閔家一門=老論の本流」というイメージが定着していきます。

1720年。兄・閔鎭厚が亡くなるとその立場を引き継いだのが閔鎭遠(ミン・ジノン)です。兄の後継者として、老論の意見をまとめて王に届ける役目を担うようになり、景宗・英祖期における老論の代表的存在となりました。

つまりミンジノンは父と兄が築いた「閔一門」の政治的立場受け継ぎ、そのうえで自分なりの政治判断と行動を重ねていった人物といえます。

妻と子どもたち

記録によるとミンジノンの妻は李徳老(イ・ドクロ)の娘で、子どもには閔翼洙(ミン・イクス)、閔遇洙(ミン・ウス)といった名が見えます。妻の実家も名門の家柄で婚姻を通じて他の有力家門とも結びついていました。

ドラマ『ヘチ』ではミンジノンの家族は前面に出てきませんが実際には閔一族のネットワークを背景に政治活動を行っていたと考えられます。

父・閔維重、兄・閔鎭厚、妹・仁顕王后、そして自分の子どもたち。こうした一族ぐるみのつながりが老論という党派の大きな柱の一つになっていたのです。

 

閔鎭遠(ミンジノン)の生涯

若い頃の経歴と書院抑制:地方官としてのミンジノン

ミンジノンは若い頃から順風満帆だったわけではありません。

1664年に生まれ、1691年に科挙に合格しますが、その少し前に己巳換局で西人派が政権から追い出され、妹の仁顕王后が廃妃となっていました。党派と家門が一緒に失脚していたため、合格してもしばらくは中央で大きな役職を得ることができませんでした。

1694年、甲戌換局が起こり仁顕王后が王妃に復位すると状況が変わります。西人派も復権しミンジノンもようやく本格的に官界に登場します。司僕寺、司憲府執義などの官職を歴任しながら実務経験を積み政界での立場を固めていきました。

1703年には全羅道観察使として地方に赴任します。このときに力を入れた政策の一つが、書院の乱立を抑えることでした。

書院は両班の子弟が儒学を学ぶ教育機関ですが、土地の税が免除され書院に属する人々が兵役を免れる特権もありました。そのため、書院が増えると地方財政が苦しくなり、書院同士の争いなども増えて問題視されていたのです。

ミンジノンはこうした弊害を抑えるために書院の新設や特権を制限し、地方行政の立て直しを図りました。その後は刑曹判書・工曹判書・礼曹判書などを務め、正二品まで昇進します。

若い頃のミンジノンは、首都での党争だけでなく地方の現場で税や兵役、教育機関の問題に向き合った経験を持つ官僚でもありました。この経験が後に老論の指導者として国家全体の制度や人事をめぐる議論をするときの土台になっていきます。

 

景宗時代:世弟擁立と辛壬士禍

1720年に粛宗が亡くなり、景宗が即位すると王位継承をめぐる問題が一気に表面化しました。病弱とされた景宗に子どもはおらず、誰を次の王にするのかが問題になります。

ここで老論は淑嬪崔氏の子・延礽君(ヨニングン)を「世弟」に立てて王位継承を安定させようとしました。その中心にいた一人が、兄・閔鎭厚の後を継いで老論の顔となっていた閔鎭遠(ミン・ジノン)です。

老論は「王家の血統を守り、国を安定させるためには延礽君を後継ぎに据えるべきだ」と主張しました。しかし景宗の立場から見ると、自分の在位中に弟を後継として前面に押し出されるのは面白くありません。老論の一部は景宗の資質まで公然と批判し、「延礽君を太子にして政治を任せるべきだ」と強く迫りました。この強硬な言い方が、少論の反発をさらに煽る結果になります。

1721年。ついに少論側は「老論が景宗を毒殺し、延礽君を王位につけようと企んでいる」と告発しました。これが辛壬士禍と呼ばれる事件です。朝廷では厳しい追及が行われ、老論の領袖だった金昌集や趙泰采らが次々と処刑されました。

ミンジノンも重罪人の一味とみなされ、慶尚道の星州に流刑となります。老論はこの事件で大打撃を受け、一時は政界からほとんど追い出される状態になりました。

ミンジノンにとって辛壬士禍は、「仁顕王后の一族として頂点に立ったあと、一気に奈落まで突き落とされる」という経験でした。

延礽君を支えようとした行動が結果的には「王を脅かした陰謀」として裁かれ、老論の失脚につながったからです。このときの記憶と少論への恨みが、のちに英祖の時代に戻ってきたミンジノンの態度を大きく左右していくことになります。

 

英祖の時代

1724年に景宗が亡くなり、延礽君が英祖として即位するとミンジノンの運命も再び大きく動きます。王となった英祖は恩赦を出し、辛壬士禍で処罰された老論系の人々を次々と召し出しました。その中に仁顕王后の兄であるミンジノンも含まれていました。

英祖の蕩平策とミンジノンの反発

英祖が目指したのは、どちらか一方の党派だけに偏らない政治でした。老論と少論のどちらからも人材を登用し、「どちらか一方が敵を叩き潰す政治」をやめようとしたのです。これが有名な「蕩平策」です。

ミンジノンも最初は恩赦で呼び戻され、左議政など高位の官職に就きました。しかし辛壬士禍で仲間を多く失った老論強硬派にとって、少論と同じように扱われることは簡単には受け入れにくいものでした。

英祖が少論の重臣・李光佐との和解を進めようとすると、ミンジノンは強く反対します。記録によれば、自分の進退をかける覚悟を示しながら李光佐の処刑を求めたとも伝えられています。英祖から見れば、これはせっかく党争を収めようとしているところに再び火種を投げ込む行動でした。

結局、英祖はミンジノンをはじめとする老論強硬派をしだいに遠ざけ、1727年には要職から外していきます。ここで一度、ミンジノンは英祖政権の表舞台から退くことになりました。

 

李麟佐の乱と少論・南人の粛清

しかし、これで老論とミンジノンの時代が終わったわけではありません。1728年、少論の一部と地方の南人勢力が結びついて反乱を起こします。これが李麟佐の乱です。

英祖にとって、これは自分を支えてきたはずの少論の一部が牙をむいた出来事でした。王は大きな不信感を抱き「やはり頼りにできるのは聖母・仁顕王后の一族だ」と考え、再びミンジノンを呼び戻します。仁顕王后の兄であるミンジノンは、このとき「聖母の外戚」として特別な信頼を受けることになりました。

李麟佐の乱が鎮圧されると、ミンジノンは「李麟佐の残党を処罰する」という名目で、少論・南人系の官僚を大規模に粛清します。反乱に直接関わっていない者まで「疑わしい」として処罰されたケースも多かったとされ、英祖の政権下でいったん回復しかけていた党派の均衡は、ここでもう一度大きく老論寄りに傾きました。

この一連の流れを見ると、英祖の政治は「蕩平策で党争を抑えようとする王」と、「少論への不信を抱える老論強硬派」とのせめぎ合いだったとも言えます。その中心にいたのが、ミンジノンでした。

 

晩年と著作

李麟佐の乱後、老論の地位は再び強くなりミンジノンは領中枢府事という高位に就きます。同時に政治や王権のあり方についてまとめた文書も残しました。その一つが「加足帝腹論」と呼ばれる文章で、王と臣下、王室と外戚の関係について、自分なりの考えを述べたものとされています。また、号にちなむ「丹巖奏議」などの文集も伝わっています。

とはいえ英祖が本当に望んでいたのは穏やかな蕩平政治でした。老論強硬派のやり方は、乱後の処理としては効果があったものの、王の理想から見ればやり過ぎな面もありました。

1733年ごろには、ミンジノンは実権の少ない名誉職に移され、政界の前面からは徐々に退いていきます。

そして1736年、72歳で死去しました。

英祖の時代の政治を振り返ると、ミンジノンは「党争の激しさをそのまま生きた人物」といえます。景宗期の辛壬士禍で受けた傷と少論への不信感を抱えたまま、英祖のもとに戻り、再び老論の立場から強硬な判断を重ねていった人物といえるでしょう。

 

ドラマ『ヘチ 王座への道』のミン・ジノンと史実の違い

韓国ドラマ『ヘチ 王座への道』ではミンジノンは「老論の大物」として、若い延礽君と何度もぶつかり合う人物として描かれます。

厳しい口調で王に諫言し、ときには敵対しているように見えますが、最終的には国と王を思う心を共有しているという人物です。演じているのはイ・ギョンヨンで、冷静さと迫力を兼ね備えた芝居が印象に残ります。

史実の閔鎭遠も老論を代表して英祖の前に立ちはだかった人物でした。英祖が老論と少論の両方を登用しようとすると強く反発しました。英祖が少論の重臣と和解しようとしたときに真っ向から反対したのはドラマと似ています。

一方で、ドラマならではの脚色も多いです。『ヘチ』ではミンジノンと英祖の関係が時に親子に近い感情のぶつかり合いとして描かれます。激しい対立の果てに互いの本心を理解し合うような場面も用意されています。でも史料にはそこまで劇的なやり取りが記録されているわけではありません。

実際の閔鎭遠は最後まで老論の立場から英祖の政策に異議を唱え続けた政治家でした。

共通しているのは「老論の代表として延礽君/英祖の将来に深く関わったこと」「党争の激しさを象徴する存在であること」といった骨格の部分です。

そこにドラマでは英祖個人との心理的な距離や、王としての成長を引き立てるための演出が加えられているのです。

 

テレビドラマ

ヘチ 2019 演:イ・ギョンヨン

 

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重臣
この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
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