華妃 年世蘭(ねん・せいらん)は中国ドラマ「宮廷の諍い女(きゅうていのいさかいめ)」に登場する人物。
清朝の第5代皇帝 雍正帝が最も寵愛する側室です。
ヒロイン・甄嬛の前半最大のライバルになります。
華妃 年世蘭のモデルになったのは敦肅皇貴妃 年氏です。
ドラマの華妃 年世蘭とモデルになった敦肅皇貴妃 年氏を紹介します。
ドラマの華妃 年世蘭
雍親王側福晋→華妃→華貴妃→年妃→華妃→年答応→敦肅貴妃(追封)→敦肅皇貴妃(追封)
雍正帝が親王だった時代からの側室。
雍正帝の即位に貢献した年羹堯(ねん・こうぎょう)の妹。年羹堯は清朝で最大の軍隊を指揮する指揮官。皇帝も警戒する人物です。
ドラマ前半の最大の敵
雍正帝の寵愛と兄の権力のおかげで後宮でも皇后以上の影響力を持ちます。皇帝の寵愛を集めようと暗躍。皇帝の寵愛を受けた妃嬪たちを激しく嫌って妨害しています。
王府時代に一度妊娠していますが。端妃が勧めた安胎薬を飲み流産。端妃を激しく憎んでいます。でもそれは雍正帝と皇太后による陰謀でした。
皇后や甄嬛と敵対。沈眉荘を陥れました。甄嬛にも毒を盛りました。
年羹堯が青海を平定した功績により、貴妃に封じられました。でも甄嬛に危害を加えたので、妃に降格させられました。
後に雍正が年氏一族を許して華妃の封号が復活します。
兄の失脚で力を失う
年羹堯が失脚すると過去の悪事が暴露されてしまい封号を剥奪され、答応に降格になります。
甄嬛に報復しますが、冷宮に幽閉され死亡します。
死後「貴妃」の格式で埋葬され、「敦肅」の諡号が与えられ、後に「皇貴妃」に追封されました。
華妃 年世蘭のモデル・敦肅皇貴妃 年氏
華妃 年世蘭のモデルになったのは実在した側室の敦肅皇貴妃(とんしゅくこうきひ) 年氏。
本名はわかりません。
漢軍鑲白旗人。漢人の中でも地位の高い旗人(貴族)の出身です。
大臣・年遐齢(ねん・かれい)の娘。
兄に大将軍・年羹堯(ねん・こうぎょう)がいます。
父・年遐齢は有力な臣下でした。康煕帝は年遐齢の娘の評判が良いのを知り、胤禛の側室に決めました。
年氏は康煕帝の第四皇子・雍親王 胤禛(いんしん)の側福普(側室)になりました。
雍親王 胤禛には福普(正室)の烏拉那拉(ウラナラ)氏がいましたが、胤禛が最も愛していたのは年氏でした。胤禛の親王時代に生まれた子供はすべて年氏の子供です。
年氏は2男1女を産みましたが全て幼いときに亡くなりました。
康煕帝が亡くなった時、年氏は妊娠していましたが。頭を地につけて深く拝礼した時にお腹を痛めて流産してしまいます。
雍正帝は亡くなった子供に「福沛」という名前を付けて皇九子として系譜に残しました。
雍正帝の時代
夫の胤禛が皇帝(雍正帝)に即位。
年氏は貴妃になりました。
一族は漢軍鑲白旗から鑲黄旗に移籍。鑲黄旗は皇帝直属の軍と民なので一族の地位が上がったことになります。
しかし年氏は何人もの子供を失い、流産も経験していたので身体が弱っていました。
雍正3年(1725年)。年貴妃が病になりました。でも康熙帝の命日に景陵で祭祀を行わないといけないので雍正帝は祭祀に出発。年貴妃を気遣って同行しないように命じました。
祭祀が終わると、雍正帝は他の行事は中止して年貴妃のもとに向かい一緒に暮らしました。その間、「皇貴妃妃」の称号を与えました。
しかし闘病生活の末、
雍正三年(1725年)十一月二十三日、皇貴妃年氏は亡くなりました。
雍正帝は年氏に「敦肅皇貴妃」の称号を与えました。
雍正帝は仕事中毒で有名です。でも年氏と過ごした最後の5日間は雍正帝の仕事の記録はほとんど無く、2つの命令を出しただけでした。それだけ年氏が気になってそばを離れなかったです。
年氏は清朝で最初に漢人で皇貴妃になった人でした。
兄・年羹堯の失脚
兄・年羹堯は有能な武将でした。
康煕帝時代におきた皇子たちの後継者争いでは、年羹堯は妹が雍親王の側室だったので、雍親王に味方しました。軍の指揮権を持つ年羹堯が味方についたのは雍親王にとって有利だったでしょう。
年羹堯は雍正帝の時代の大将軍でした。でも大きな力を持ちすぎ、雍正帝も警戒するようになります。軍からは年羹堯への不満や悪い噂も出ています。でも年氏の兄なので雍正帝は処分をためらっていました。
年氏の死後。雍正帝は年羹堯に気遣いするのをやめて理由を付けて降格。すると新形が次々と告発して年羹堯は失脚しました。
ドラマと史実は大違い
年氏は悪女ではない
史実の年氏本人には悪い噂はありません。
でもドラマ「宮廷の諍い女」では皇后や甄嬛たち側室を次々に陥れる悪役として描かれています。表裏のある人はいますし。解釈の仕方で善にも悪にもなりますし、記録が全て正しいともいえません。
でもドラマの年世蘭は庇いようのない悪人です。
これがドラマの雍正帝や周りの男達は年世蘭の悪事に全く気づかずに良いところだけを見ていた。というなら別ですが。
ドラマの雍正帝は年世蘭の悪事に気が付いて罰しているのに最終的に皇貴妃の地位と「敦肅皇貴妃」の称号を与えてしまうのは矛盾しています。
兄の失脚→年氏の死ではなく、年氏の死→兄の失脚
ドラマでは兄・年羹堯が失脚したせいで年世蘭も没落します。
でも実際にはその逆です。
実際には雍正帝はいつか年羹堯を罰したいと思っていました。でも寵愛する年氏が闘病中だったので兄を罰することができなかったのです。年氏の死後。雍正帝は年羹堯を罰しました。
中国ドラマでは史実と違いすぎる人がよくいます。「宮廷の諍い女」の年世蘭は史実と違いすぎる人物の代表といってもいいですね。
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