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温寧君の史実・王女の男に登場する王族は実在する?

温寧君は朝鮮王朝 太宗の七男。世宗から端宗の時代を生きた王族で、幼い頃は聡明といわれましたが、成長してからは問題も多い王族でした。

『王女の男』にも登場して重要な人物のように描かれています。史実でもあんなに重要人物だったの?」と引っかかった人も多いのではないでしょうか。

この記事では、朝鮮王朝実録に見える温寧君の行動記録や逸話を紹介しつつ、ドラマで出番が増えた理由まで解説します。

この記事で分かること

  • 温寧君が「賢い」と評された一方で問題児でもあった史料上の姿
  • 鷹狩り・冠騒動・宗学の乱闘など、実録に残る具体的エピソード
  • 端宗期に首陽大君側へ寄ったと読める動きと、その限界
  • 『王女の男』で温寧君が目立つ理由(王族代表+復讐相手の役割)

 

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温寧君の史実

温寧君はどんな人?

温寧君は、太宗の七男で、世宗の時代から端宗の時代まで生きた王族です。
「朝鮮王朝実録」によると次のような人物です。

  • 幼少期に聡明で賢いと評価された
  • 武芸に優れていた
  • 奔放な行動でたびたび問題になった
  • 端宗即位後、譲寧大君とともに首陽大君を訪ねた記録がある
  • 1454年に亡くなった

 

温寧君のプロフィール

  • 君号:温寧君(オンニョングン)
  • 名前:李䄇(イ・ジョン)
  • 生年:1407年
  • 没年:1454年6月16日(陰暦 5月12日)
  • 父:太宗
  • 母:信嬪 申氏(神寧宮主)
  • 諡:良恵

 

父は太宗

温寧君の父は3代国王 太宗。
太宗の即位後に生まれた庶子で温寧君は7男になります。

世宗より10歳、譲寧大君より13歳年下になります。

母は信嬪辛氏

温寧君の母は神寧宮主。後に「信嬪」の称号が与えられたため歴史上は信嬪と呼ばれることが多いです。太宗には側室が多いですが、信嬪は一番子供の多い側室。太宗から寵愛されていたことが分かります。

 

温寧君の生涯年表

  • 1407年 誕生
  • 1425年(世宗7年) 嘉靖大夫 温寧君に封じられる
  • 1426年(世宗8年) 西郊で鷹狩りを行い、雉を射て世宗から褒賞を受ける
  • 1430年(世宗12年) 元旦朝賀の場で冠騒動を起こし弾劾される
  • 1430年(世宗12年) 宗学で恵寧君と争い、再び問題になる
  • 1434年(世宗16年) 宗学欠席が多く、世宗が従者を取り上げる
  • 1438年(世宗20年) 国忌日に酒宴を楽しんだとして弾劾される
  • 1452年(端宗即位年) 譲寧大君とともに首陽大君を訪問した記録
  • 1454年(端宗2年) 死去。端宗が3日間の朝会・市場停止と賻儀を下す 

 

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史実の温寧君のエピソード

温寧君は有能さと奔放さの両方が同居する人物。様々な逸話が残る人物です。「朝鮮王朝実録」に記録された温寧君のエピソードを紹介します。

若いころの温寧君の評価

記録によれば、若い頃の温寧君は知恵と才気に溢れ、他の王族よりも優れていたと非常に高く評価されていました。

しかし、その一方で豪放で武芸に秀でていたとも言われ。かなり血気盛んで抑えの効かない一面があったことも分かります。

 

鷹狩りで見せた弓矢の才能

1426年(世宗8年)の鷹狩りで温寧君は見事に雉(キジ)を射落としました。これに満足した世宗が馬を下賜したという記録が残っています。

彼はただのお騒がせ者ではなく、武芸は練習していた王族だと分かります。

 

元旦の「冠打ち落とし」騒動

1430年の元旦。朝賀の儀式で事件は起きました。温寧君(23歳)は恵寧君とともに慎宜君の冠を笏で叩き落としました。怒った慎宜君が温寧君の冠を蹴り返します。騒ぎは大きくなり宗簿寺が介入して弾劾事件へと発展しました。

宗簿寺
王族の不祥事を取り締まる部署。仏教施設ではありません。朝廷の組織です。

 

ところが先に手を出した温寧君たちも非難されましたが、重い処分を受けたのは慎宜君でした。「年少の者が目上の王族の冠を蹴るとは何事か」という理由で慎宜君は城外へ追放されてしまったのです。

当時の王族社会の「年功序列」がどれほど厳しかったかがわかります。

 

宗学での乱闘

冠騒動からわずか数ヶ月後、今度は王族の教育機関「宗学」で温寧君は恵寧君と取っ組み合いの喧嘩を起こします。互いに殴り合い、衣の襟を破り合うという、王族らしくない醜態でした。

 

不真面目な学習態度

温寧君は勉強熱心では中多様です。1434年の年の冬の3ヶ月間で最も宗学を欠席したのが温寧君でした。

これには世宗も怒って罰として彼の従者を没収しています。

 

忌日の酒宴という不敬

さらに王室の忌日(命日)に山へ登り、酒と肴を楽しんでいたとして弾劾されました。

これは王室の伝統と格式・礼節を汚す行いで。喧嘩よりもこちらのほうが重大でした。

こうしてみると。若い頃は礼儀正しかったのかも知れませんが。思春期を超えて大人になるとだんだん行動が派手になり、自由気ままに行動するようになったようです。

20歳を越えて問題行動がエスカレートしているように見えますが、朝鮮では王位継承から外れた王族には成長して問題行動を起こす人が多いように見受けられます。

ただしこうした行いは譲寧大君にもみられたことで、太宗の息子たちの何人かは父譲りの奔放なところがあったのかもしれません。

 

端宗時代に首陽大君に接触

揺らぐ王権と王族たちの動向

文宗が世を去り幼い端宗が即位すると、大臣の皇保仁(ファンボ・イン)、金宗瑞(キム・ジョンソ)らが端宗を補佐。彼らが政治を主導する用になりました。

これには王族たちは反発。大臣と王族の対立が怒ります。温寧君は歴史を動かすほどの人物ではありませんが、王族の一員として首陽大君を支持する立場にいました。

首陽大君への訪問と「天命」の言葉

「朝鮮王朝実録(端宗即位年10月8日)」によると。温寧君は兄である譲寧大君とともに首陽大君(世祖)の私邸を訪れました。この場には他の王族たちも集まっており、そこで譲寧大君は「首陽こそ天命を授かった人物だ」と口にしたとされています。

この後約1年後に癸酉靖難(ケユジョンナン)が発生しました。

これだけを理由に温寧君が首陽大君の反乱に加担したと言い切る事はできませんが。少なくとも現状に不満で首陽大君に期待していたのは間違いありません。

 

温寧君の最後

温寧君は癸酉靖難の後。首陽大君が即位する前の1454年(端宗2年)にこの世を去りました。

彼の死を知ると端宗は朝廷の会議や市場を3日間停止させ、麻布や米、紙など多大な弔慰品を贈っています。さらに「良恵」という諡(おくりな)を授けました。これは「温和で善を好み、慈しみ深い」といった意味を含んでいます。

数々の騒動を起こした問題児でしたが、王室内では確かな地位を築いた重鎮として、手厚く葬られたことが分かります。

 

「王女の男」の温寧君

ドラマ『王女の男』は温寧君(オンニングン)は首陽大君を支持する王族として登場。首陽大君側の王族としては特に目立っています。史実以上に首陽大君の政変に関わっているように描かれます。

なぜこれほど出番が多く、重要な役回りなのでしょうか?

 ドラマの温寧君:なぜ「王族代表」として目立つのか?

ドラマでは、首陽大君(スヤンデグン)の叔父であり、彼の野望を王族側から支える「重鎮」として描かれています。

でも史実で首陽を支えた真の王族代表は譲寧大君でした。

政変前に首陽大君を訪ねて「首陽には天命がある」と首陽大君の手を取り正統性を認める発言をしたのは譲寧大君です。温寧君もその場にいましたが、忠臣になって動いていたのは譲寧大君でした。

ドラマによる役割の脚色

ドラマ制作では登場人物が多すぎると視聴者が混乱するので人物を減らすことはよくあります。

  • 史実: 譲寧大君を中心に、温寧君を含む複数の王族が首陽を支持。
  • ドラマ: 譲寧大君をあえて本格登場させず温寧君に「首陽を支持する王族代表」としての役割をまとめる。

温寧君ら王族の支持がなければ首陽大君の単独の犯行になってしまい、正統性が薄れます。王族からも支持を得ていると表現するのが大事。そのためには王族代表で首陽大君に味方する人物が必要になってくるのです。

それなら素直に譲寧大君を出して温寧君を削ればいいじゃないかと思うかも知れません。

事実、首陽大君側からの視点で描かれる「インス大妃」では譲寧大君が盛んにけしかけています。

でも「王女の男」ではそうしづらい理由があります。

温寧君が「復讐のターゲット」に選ばれた理由

このドラマはキムジョンソや端宗側から描いています。ここでは首陽大君のクーデターは非難される側です。

ドラマ中盤、キムジョンソの息子で主人公・承兪(スンユ)は復讐を開始。温寧君は重要な標的となり命を落としました。

なぜ譲寧大君ではなく、温寧君がこの役割を担わされたのでしょうか?そこには「死去年」が関係しています。

 

史実の「1454年死去」が重要

温寧君は史実でも1454年(端宗2年)にこの世を去っています(端宗実録)。
一方、譲寧大君はその後も長く生存しました。

もし譲寧大君をスンユに殺害させてしまうと、史実との違いがあまりに大きくなりすぎてしまいます。しかし温寧君であれば復讐の相手にちょうどいい。

  • 王族としての高い格(首陽の叔父世代)を持っている
  • 首陽本人ではないため段階的な復讐劇の標的として最適であり
  • 史実上の死去年とも近い

そのため、このタイミングで退場させても違和感が少ないのです。

それに譲寧大君は大物すぎてここで殺害して退場は違和感があります。

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史実とドラマの違いは王族代表としての役割

ドラマの温寧君は自ら動いて首陽大君に働きかけ。王族の代表のように振る舞っています。史実の温寧君は鷹狩りや飲酒、あるいは礼法違反で世宗を困らせるような奔放な王族でした。

自分から王族をまとめて首陽大君をサポートするような役回りはこなせそうにありません。それができるのは譲寧大君です。

でもドラマには譲寧大君がいないので、温寧君がその役割をする事になっているのです。

 

まとめ:温寧君は王族代表と復讐相手の二役を兼ねる存在

『王女の男』の温寧君の役割は、王族代表として首陽大君を支持する。スンユの復讐の相手となる。というものでした。

温寧君自身も首陽大君との関わりはあります。それを拡大解釈してドラマに登場しない譲寧大君の役割を担当させ。史実の没年を利用してドラマチックに退場させる。

そうしてスンユの復讐が首陽陣営の大物にまで迫ってきた。次は誰がターゲットなのか?という緊迫感を演出することに成功しています。

次にドラマを観る際は、温寧君がどんな役目を背負って描かれているのかに注目してみると、スンユとの対決シーンがさらに楽しめると思いますよ。

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
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