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王君廓:盗賊団から唐の幽州大都督に出世した男の裏切りの代償

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

王君廓(おう・くんかく)は7世紀の唐の武将。

もとは盗賊を率いる首領でしたが、唐に降伏。李世民の配下となって働きました。様々な戦いで手柄を立て唐の天下統一に貢献しています。

幽州大都督 李瑗の補佐役に任命されましたが。玄武門の変の後、都への呼び出しを恐れる李瑗を唆して挙兵させ。さらには李瑗を裏切って殺害。

太宗 李世民のもとで幽州都督に任命されますが横暴なため何度も非難されます。

最後は告発されたと思って逃走。突厥に亡命しようとしましたが途中で殺害されてしまいます。

史実の王君廓はどんな人物だったのか紹介します。

 

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王君廓の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :(おう)氏
名称:君廓(くんかく)

国:唐
地位:幽州大都督
称号: 盧江郡王

父:不明
母:不明

日本では飛鳥時代になります。

 

問題児だった子供時代

隋の時代。

王君廓は幼くして両親を亡くしまし、10代で馬の販売で生計を立てていました。行いが悪く、よく盗みをしていたので村人たちは彼を問題児扱いしていました。

隋朝末期。
世の中が乱れてくると王君廓は盗賊団を結成しようとしました。でも叔父に反対されます。そこで王君廓は隣人と叔母が密通していると嘘を付き、叔父と一緒に隣人を殺害しました。その後、王君廓は逃亡生活を送りました。

賊軍を率いて略奪を繰り返す

その後、王君廓は千人以上の人々を集めて略奪行為を行い夏県や長平を襲いました。河東郡丞の丁栄は兵を率いて討伐に向かい、王君廓に降伏するよう説得しました。しかし王君廓は降伏するふりをして山谷に兵士を潜ませておき、丁栄が撤退するときに奇襲をかけて敵軍に大損害を与えました。

その後、王君廓は韋寶、鄧豹と共に虞郷(現在の山西省永済市)を攻撃しました。隋将の宋老生と遭遇。初戦では敗北して山に退却。粮食が尽きたので、宋老生に降伏するふりをして話し合いを行いました。そして宋老生が油断した隙に夜中に逃走しました。

その後、王君廓は邯鄲を攻撃しました。邯鄲の人々から「今や英雄たちが起こっております。あなたは勝利者が出るまで待ち、それから投降すべきです。そうすれば富貴が得られます。今あなたは土地も食料もほとんど持っておらず、ただ略奪行為ばかりしています。私たちはあなたのことを心配しています」と忠告されました。王君廓はどうすればよいか尋ねると、王君愕は井陉(現在の河北省获鹿市南部)を占領することを提案しました。そこで王君廓は彼の言葉に従い、兵士たちを率いて井陉を占領しました。

 

 

王君廓の唐への投降

義寧元年(617年)。李淵が隋に反乱を起こしました。王君廓は李淵の軍に投降するように何度も誘われました。でも王君廓は李淵の財力が少ないと考え断りました。韋宝と鄧豹は李淵に投稿しようとしたので王君廓は彼らを襲撃。荷車を奪って李密の瓦崗軍に投降しました。

武徳元年(618年)。李淵は皇帝を名乗り国号を「唐」にしました。王君廓は瓦崗軍でよい待遇を受けなかったので唐に投降しました。

王君廓は上柱国の位を授けられ、河内太守を代行。常山郡公の爵位を与えられました。後に遼州刺史になり、上谷郡公の爵位を与えられました。

 

数々の武功を挙げる

李淵が皇帝を名乗り唐を建国したといっても同じような勢力は各地にいました。李淵は中原に何人もいる自称皇帝の一人にすぎませんでした。

唐が天下統一するためには、まずは王世充、竇建徳を倒さなくてはいけません。

王世充との戦い

武徳3年(620年)。秦王 李世民が王世充の討伐に動き出すと、王君廓は洛口(現在の河南省鞏県)を攻めて洛陽への糧道を断ち、轘轅(現在の河南省偃師市東南)を攻略しました。

王世充側の将軍 魏隱が反撃してきたので、王君廓は敗走を装って魏隱を誘い込み、伏兵をおいて大敗させました。その後、鄭州(現在の河南省鄭州市)まで進軍しました。

 

竇建徳との戦い

武徳4年(621年)。夏王 竇建徳が王世充を援護するために出兵。虎牢(現在の河南省荥陽市汜水鎮)で唐軍と交戦しました。唐軍は苦戦しましたが、王君廓は軽騎兵を率いて夏軍の糧草を奪い、夏軍の将軍の張青特を捕虜にしました。

王君廓は竇建徳や王世充との戦いで手柄をたて「右武衛将軍」に任命され、彭国公の爵位を与えられました。

劉黒闥との戦い

武徳5年(622年)。竇建徳の仲間だった劉黒闥が残党を集め漢東王を自称。
同じころ、李去惑が洛水で唐軍に降伏しました。

王君廓は騎兵を率いて洛水に入城、李去惑と共に城を守りました。しかし劉黒闥に洛水を包囲されます。

李世民が3回 救援に向かいましたが、いずれも失敗。李世民は王君廓では洛水は守りきれないと判断して城南の高台から王君廓に旗で突撃を命じました。

同時に行軍総管の羅士信を200の兵士とともに洛水に入城させ、王君廓に代わって城を守らせました。劉黒闥は洛水を攻略、羅士信を捕虜にしました。

劉黒闥が平定された後、王君廓は幽州の守りに任命されました。

 

突厥との戦い

武徳8年(625年)。突厥が侵攻してきました。王君廓は幽州で突厥を破り、二千人を捕虜にし、五千匹の馬を鹵獲しました。

唐の高祖 李淵は喜び、王君廓を呼び出して馬を与え、殿上で馬に乗らせ、錦袍と金帯を賜与えて幽州に戻しました。

 

李瑗の反乱を鎮圧

武徳9年(626年)。廬江王 李瑗が 幽州大都督になりました。
高祖 李淵は 李瑗は臆病で才能にかけると心配していたので、王君廓を補佐につけました。勇猛果敢で頭が良かったので李瑗は彼を頼りました。彼と親戚になることを約束した。

都の政変を知り李瑗に挙兵をそそのかす

武徳9年(626年)7月。秦王 李世民が反乱を起こして李建成を殺害してしまいます(玄武門の変)。

その後、高祖は崔敦礼を使者として派遣。李瑗を都に来るよう命令しました。李建成と親しかった李瑗は、長安に行けば命はないと不安になって王君廓に相談しました。

王君廓は李瑗に
「都で起きた政変の結末はまだ分かりません。大王(李瑗のこと)は皇族であり、辺境を守る任務を帯び十万の兵をもっています。どうして罠に掛かる必要があるのですか?」と言うと王君廓は李瑗と一緒に泣き出しました。

李瑗は王君廓の言葉を信じて挙兵を決意しました。

李瑗は使者の崔敦礼を捕らえて都の機密情報を聞き出そうとしますが、崔敦礼は答えません。李瑗は崔敦礼を監禁しました。李瑗は配下を集めて相談し、挙兵の計画をたてました。そして軍の指揮を王君廓に任せました。

李瑗を裏切る

でも兵曹参軍の王利涉は王君廓を信用していなかったので、王詵に指揮させるように言いました。

王君廓はそのことを知ると、王詵のもとを訪ねて殺害。彼の首を持って「李瑗と王詵は共謀して反乱を起こし、皇帝の使者を囚禁し、兵を集めている。今、王詵は殺され李瑗は一人残された。皆は李瑗と一緒に一族皆で殺されるのを望むのか?それとも私についてきて富や地位を得るのか?」というと。将兵たちは王君廓に従いました。さらに王君廓は崔敦礼を釈放。一千の兵を率いて李瑗の討伐に向かいました。

王君廓は李瑗のもとに到着すると、李瑗の部下に「李瑗は朝廷に背いている。彼とともに身を滅ぼそうというのか?」と言いました。すると兵たちは武器を捨てて逃げ、李瑗はひとり取り残されました。

王君廓は罵倒している李瑗と捕らえて絞殺。首を都の李世民のもとに送りました。

王君廓は李瑗を討伐した功績で 左領軍大将軍、幽州都督に任命され、左光禄大夫の称号を与えられ、領地一千三百戸を与えられました。

 

王君廓の最期

王君廓は幽州で法律を守らず、自分勝手に振る舞っていました。長史の李玄道は彼を何度も朝廷非難しました。

貞観元年(627年)。王君廓は皇帝の命令を受けて都に入り、李玄道から房玄齢に手紙を届けるよう頼まれました。王君廓は李玄道の手紙が草書で書かれていたので読めずに、自分を告発しているのだと疑いました。王君廓は渭南に到着すると宿場の人々を殺害し、突厥に逃亡しようとしました。ところが逃げる途中で民衆に殺されてしまいます。あっけない最期でした。

 

太宗 李世民は王君廓の功績を評価して彼を葬りましたが、御史大夫 温彦博は「王君廓は謀反人であり、功績を称えるべきではない」と上奏。唐太宗は彼を庶人に降格させました。

 

テレビドラマ

長歌行 2021年、中国 演:王小偉
隋唐英雄 2012年、中国 演:時晨飾

 

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