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麗・解氏(ヘ氏)が高氏(コ氏)に変わったのは高句麗時代だった?

1 高句麗

韓国ドラマ「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」では。最終回で「コ氏は高麗時代はヘ氏だった」というセリフが出てきます。

ヒロインの「コハジン」が高麗時代にタイムスリップして「ヘス」の体に乗り移った。それは祖先の体だったからという演出なのでしょう。

ところが、解氏(ヘ氏)が高氏(コ氏)に変わったのは高句麗時代なのです。

「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」の舞台になった高麗時代ではありません。

なぜ、高麗時代に変わったことになってるのでしょうか?

意外と知られていない高句麗と高麗の関係についてお話します。

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高氏と解氏の関係

現在の韓国では”高(コ)”の名字を持つ人は、約47万人。韓国では22番めに多い苗字です。

朝鮮の高氏は高句麗系と耽羅系に分かれます。

高句麗系の”高”氏

高句麗系の高氏は高句麗王族が始まりです。高句麗王族は”高”を名字にしてました。高句麗の創始者・東明聖王の名前が”高朱蒙”だったことになっているからです。鄒牟(チュモ)、衆解(チュンヘ)とも書きます。

三国史記(高麗で作られた歴史書)によると朱蒙は古代中国の伝説上の皇帝”黄帝”の孫”高陽”の子孫だと自称していることになってます。だから”高”と名乗っていたそうです。

ただし、朱蒙が古代中国皇帝の子孫だとすると朝鮮人ではありません。だから韓国ドラマではこの説は採用していません。

”高”の名字は王族だけでなく将軍や家臣にも与えていました。”高”の名字をもつからといって高句麗王族とは限りません。

高句麗は朝鮮半島の上半分と中国大陸にまたがる国でした。満州と渤海に住んでいた高氏はほぼ高句麗系だといわれます。現在だと中国の東北部と北朝鮮のあたりです。

耽羅系の”高”氏

耽羅(たんら、ちんら)は古代に済州島にあった王国です。耽羅は南方系の民族が作った国です。民族的には中国やモンゴル人よりも日本人に近い。とくに九州(熊襲や隼人とよばれる人たち)、沖縄、台湾の先住民族に近いと考えられます。

済州島に伝わる「三姓神話」によると、耽羅は高・梁・夫の三人の神が東の碧浪国(現在の日本)から来た美しい女性をめとって王国を作ったのが始まりだとされています。

三人の神の一人、高から高氏は始まったというのです。

耽羅国は小さな国だったので百済、新羅の属国だった時代もあります。日本に朝貢していたこともあります。王氏の高麗に征服された後、李氏朝鮮時代に耽羅王家は廃止されて朝鮮の地方のひとつになりました。済州島が李氏朝鮮時代に流刑地になったのは征服された異民族の国だったことも理由のひとつでしょう。

現在では混血が進んでいるのでどの出身なのかはわかりません。地理的には韓国に住んでいる高氏は耽羅系が多いと考えられます。

つまり韓国の高氏は高句麗とは関係ない可能性が高いです。

解(ヘ)氏

扶餘は紀元前1世紀ごろ満州(中国東北部)にあった国です。解慕漱(ヘモス)は人というより神や神の子に近い存在です。また、東扶余国(扶余国ともいいます)を作ったのは”解夫婁(ヘブル)”王。扶余の王族は”解”の姓をもっていたようです。

高句麗の創始者、朱蒙(チュモン)の名字はかつては”解(ヘ)”だったという説があります。

伝説では朱蒙の父親は”解慕漱(ヘモス)”です。解慕漱は扶餘や高句麗の建国神話に出てくる名前です。

父の名字が「解」だったから、朱蒙の姓も最初は「解」だったかもしれない。だから解氏から高氏に変えた、というのです。

ただし、解慕漱や解夫婁の解が姓なのかはわかりません。

高句麗人は漢民族ではありません。だから、もともと高句麗人は漢字一文字の漢式の姓は使っていませんでした。歴史上は広開土王が中国の普に朝貢するようになってから漢字一文字の姓を名乗ったと考えられます。

事実。歴史上の文献で、高句麗王が「高」の姓を使ったことが確認できるのは長寿王からなのです。長寿王は広開土王の息子です。この時代に高句麗では漢字一文字の姓を使う習慣が始まったのかもしれません。

高氏は昔は解氏だった?その真相

高句麗と百済は扶余から分裂した国だといわれます。”解”の名字を持つ人が王族にいても不思議ではありません。

後に朱蒙が扶余の建国神話に出てくる解慕漱の子供ということになったので、”解”から”高”に名字が変わったという理屈になりました。

つまり、高氏が解氏から変わったのは高句麗時代なのです。

冒頭でも書いたように、「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」では最終回に「コ氏は高麗時代はヘ氏だった」というセリフが出てきます。

なぜ高麗時代の設定にしたのでしょうか?

それは古代、高句麗は「高麗」と名乗っていた事があるから です。

すくなくとも広開土大王の息子・長寿王の時代には高麗と名のっていたようです。古代中国の文献では高句麗の王族が高氏を名乗っていたと分かるのも長寿王の時代からです。

最初は高句麗とよんでいたようですが、途中から高麗に変えたようです。

ところが後の時代に王建が高麗という国を作りました。王建はかつて朱蒙が作った高句麗(途中から高麗に改名)の末裔だと自称していたからです。それなら歴史上は後高麗か王氏高麗と区別すればいいですよね。

ところが歴史研究者の間では高氏の国を「高句麗」、弓裔の国は「後高句麗」にして、王氏の国は「高麗」と区別することになったのです。

ちなみに、古代中国の記録では高句麗のことを「高麗」と書いていることもあります。

高句麗・高麗の呼び方は現在とは違った?

古代日本では高句麗を「こま」と呼んでいました。百済を「くだら」、新羅を「しらぎ」、任那を「みまな」と呼ぶのと同様に、やまとの国(いわゆる倭国)では「高麗」の読みは「こま」なのです。

つまり古代日本人は現代我々が高句麗と読んでいる国を「高麗(こま)」だと信じていたのです。

おそらく古代には高麗と書いて「コマ」かそれに近い呼び方をしていたのでしょう。高句麗がどの民族だったか諸説ありますが、ツングース系が有力です。つまり朝鮮人よりも女真族(満州族)に近いのです。言葉も朝鮮語とは違います。韓国ドラマの発音は高句麗時代の呼び方とは違うようです。

古代の中国大陸東北部には濊貊という民族がいました。高句麗は濊貊の子孫だと考えられています。貊は狛とも書きます。古代日本では「高麗」も「狛」もどちらも「こま」と呼んでいました。狛犬の「こま」はここから来ています。

日本各地に高麗や巨麻(こま)という地名があります。これは高句麗系の渡来人とのつながりがあるといわれます。王建(ワン・ゴン)の作った高麗とは違うのです。

「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」の製作者が、高句麗の名前の移り変わりや古代中国の歴史書に「高句麗が高麗と書かれている」のを知っていたかはわかりません。

韓国時代劇は歴史考証はあまり気にしません。韓国人も朝鮮半島の歴史はあまり知らないようです。

本当は朱蒙の高句麗時代に解氏から高氏に変わったのに、王建の高麗時代に変わったと勘違いしているのかもしれませんね。

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