李爾瞻(イ・イチョム)は李氏朝鮮の光海君時代の重臣。華政などのドラマでは権力欲の強い人物として描かれます。
歴史上の評価も、悪の重臣の代表といった評価になってしまいます。
確かに、多くの人々を陥れて殺害しました。イ・イチョムの影響力は国王を凌ぐとまで言われたほどです。
史実の李爾瞻(イ・イチョム)どんな人物だったのか紹介します。
李爾瞻(イ・イチョム)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1560年
没年月日:1612年
名前:李爾瞻(イ・イチョム)
本館:廣州
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~13代明宗の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
燕山君時代の重臣・李克墩(イ・グクドン)の子孫。南人派の李徳馨(イ・ドクヒョン、ハヌム)とは同じ一族になります。
5代前の祖先・李克墩(イ・グクドン)が戊午士禍(燕山君時代に起きた粛清時間)の原因を作ったとして批判の対象になったため、幼いころは軽蔑されて育ちました。
1582年(宣祖 15年)。進士に合格。光陵参奉になりました。
長いあいだ貧しい生活をしていた李爾瞻は壬辰戦争(文禄・慶長の役、朝鮮出兵)のとき義勇軍に参加。義兵長となって光海君を助けました。
鄭仁弘(チョン・インホン)の弟子となり、彼のもとで学びました。
1594年。科挙に合格。
壬辰戦争のときに義兵を募り指揮して戦った功績で一等功臣になりました。その後、要職を歴任しました。
宣祖が永昌大君を後継者にしようとしたとき。北人派が分裂。領議政・柳永慶や師匠の鄭仁弘が永昌大君を支持した(小北派)のに対して、李爾瞻は光海君を支持(大北派)。
柳永慶や鄭仁弘を弾劾したり、光海君が王にふさわしいことを主張していると宣祖の怒りをかい、流刑になりました。
光海君の時代
宣祖が死亡して光海君が王になると復帰。光海君を支える大北派の主要人物になりました。
勢いづいた大北派は光海君の王位を脅かす小北派の粛清を考えます。小北派の領袖・柳永慶を粛清。他の小北派も死罪あるいは流刑になり、小北派は壊滅しました。
また光海君の正当性を脅かす臨海君に謀反の疑いをかけ粛清しようとしました。
光海君は庶子で次男だったので即位後も明から王として認めてもらえませんでした。光海君にとって長男の臨海君の存在が問題になっていたのは確かでした。
光海君は兄を処刑することはできず、珍道への流罪を命じます。その後、臨海君は謎の死をとげます。光海君には病死の報告が届きました。
仁祖の報告では、イ・イチョムが送った暗殺者によって殺されたとあります。
臨海君の死後、明は光海君の王位を認めました。
その後も、大北派の粛清は終わりません。
光海君と世子の座を争った永昌大君に狙いを定めました。仁穆大妃の父・金悌男(キム・ジェナム)に謀反の疑いをかけ処刑。仁穆大妃を西宮に幽閉し永昌大君を流刑にしたあと殺害しました。
イ・イチョムら大北派の横暴を避難する、成均館儒生たちの上訴が殺到しましたが効果はありません。
1617年。イ・イチョムは仁穆大妃の廃妃を訴えます。大北派は賛成し、重臣たちも反対するのものはほとんどいませんでした。わずかに李恒福らが反対しましたが、李恒福から官位を剥奪して追放してしまいます。
光海君は廃妃には賛成できませんでした。しかし重臣たちの多くが廃妃を訴えたため、「大妃」とは呼ばず「西宮」と呼ぶという妥協案を出して決着しました。
光海君は大北派の力が強くなるのを警戒して、李元翼(イ・ウォニク)、李恒福(イ・ハンボク)、李德馨(イ・ドクヒョン)などを起用して大北派の横暴を抑えようとしました。イ・イチョムら大北派は彼らを陥れ敵対する者を粛清しました。
イ・イチョムはやがて光海君を脅かす力を持ちます。
仁祖反正で処刑
1623年。綾陽君と西人派が反乱を起こしました。
光海君は当初、イ・イチョムの反乱だと勘違いしていました。そのくらいイチョムの影響力は強かったのです。そのせいで反乱への対応が送れ、宮殿が占領されてしまいました。
反乱軍は宮殿を占領。イ・イチョムは都を逃れましたが、途中で捕まりました。斬首刑にされました。享年64歳。他の大北派も処刑されました。この反乱で大北派は壊滅しました。
綾陽君が即位し仁祖となり、西人派の世の中になります。以後、李氏朝鮮が続く間、イ・イチョムは悪の代表として語られることになります。
イ・イチョムら大北派が力を持ちすぎため、朝廷では賄賂が横行するなど腐敗も進みました。
正当性の弱かった光海君の地位を確かなするために、障害になりそうな人物を容赦なく排除しました。そのやり方には批判も集まります。しかし日本との戦争後に混乱していた社会を立て直すために、朝廷には強力なリーダーシップが必要でした。女真族が力を持ち後金を建国。明が衰えたことで新たな戦争に巻き込まれる可能性も出てきました。
北人派は日本との戦争を予想したり、後金の脅威を感じ取ると明と後金からは中立的な政策をとります。土地を持つ両班からも一定の税をとるなどの政策も実施しました(それまでは両班は納税の義務はありませんでした)。北人派は他の派閥に比べると現実的な考えの持ち主でした。
やり方が強引だったことと、儒教的な価値観を重視する他の派閥から反発をうけることも多く。反乱を起こされてしまうことにもなります。
テレビドラマ
宮廷女官金尚宮 KBS 1995年 演:ソ・インソク
雷鳴 KBS 2000年 演:ソン・ドンヒョク
王の女 SBS 2003年 演:イム・ヒョク
華政 MBC 2015年 演:チョン・ウンイン
懲毖録 KBS 2015年 演:コ・セウォン
コメント
おいたちの10行目
義兵を作りに違和感があります。義兵を募りか組織しを検討してください。
23行目
謎ののは、のが重複しています。
以前「華政」を見た時、イ・イチョムは全くさえない人物(個人的感想)として登場しました。光海君を世子に推したといえなぜ、彼が光海君の政権下で強い力を持ったか不思議に思っていました。
最近、イ・ヨンエ主演の「宮廷女官キム尚宮」のDVDをたまたま買って見ています。現在は30話を見ています。
それで、以前に気になっていたイ・イチョムを調べてみました。朝鮮王朝の重臣が2番目にヒット(表現が古いかも)しました。解説に書かれている壬辰倭乱の一等功臣という説明で納得できました。
ご指摘ありがとうございます。
ドラマは作り話なのでどうしても実在の人物と違うイメージになることはよくありますね。韓国ドラマは特にその傾向が強いです。
歴史上の記録を見る限りはイ・イチョムは大北派で大きな権力を持つ人物だと思います。光海君もかなり妥協せざるをえなかったと思います。