許黄玉(ホ・ファンオク)は金官国(駕洛国)の初代国王・金首露(キム・スロ)の妃。
古代インドのアヨーディヤー(Ayodhya)国の王女だと言われています。
金海金氏と金海許氏の祖先になった人だといわれています。
史実?の許黄玉(ホ・ファンオク)はどんな人物だったのか紹介します。
許黄玉(ホ・ファンオク)の史実
いつの時代の人?
生年月日:西暦33年
没年月日:西暦189年
名前:許黄玉(ホ・ファンオク)
称号:許皇后、普州太后
父:不明
母:不明
兄:張裕画像(長遊和尚)
夫:首露王(金官国初代国王)
子供
長男:居登王(金官国2代国王)
他:息子9人。
息子の二人が母方の許氏を名乗り、金海許氏の祖先となりました。
娘1人。
加羅(伽耶)諸国連合の金官国初代国王・首露王の妻です。
インドの姫が夢のお告げで金官国の王妃に
高麗時代に書かれた「三国遺事」に収録されている「駕洛國記」という説話集によると阿踰陁國(アヨーディヤー国?)の姫だったといわれます。
「駕洛國記」は高麗の文宗(1046~83年)時代に金官知事が現地で集めた民話をまとめたものとされます。空想的な内容なので信憑性は低いですが。伽耶地方のことを書いた数少ない書物なので、一部の朝鮮半島史ファンからは注目されている書物です。
阿踰陁國の国王と王妃は夢でお告げを聞きました。既に亡くなってた先の王が夢に出てきて娘を金官国の首露王の妃にするように言ったというのです。
そこで王と王妃は、娘(許黄玉)に大勢の従者をつけて金官国に送り出しました。
許黄玉は従者とともに金海海岸に到着しました。
首露王は留天干(ユチョンガン)と神鬼干(シングィガン)など多くの臣下を派遣して、姫とその一行を出迎えました。
子沢山
許黄玉(ホ・ファンオク)は太子の居登公など10男1女をもうけ、子宝に恵まれました。
長男の居登は2代目国王となり、金海金氏の祖先となりました.
許黄玉(ホ・ファンオク)は息子の2人に自分の姓をうけつぐように首露王に願いました。2人の息子は姓を許氏に変えました。これが金海許氏の祖先です。
他の息子たちは出家して僧になりました。
仏教を広めた
許黄玉(ホ・ファンオク)と兄の張裕画像(長遊和尚)は地域に仏教を広めたといいます。長遊和尚は金海に長游庵を建て仏像を置きました。舎利塔も作ったといいます。
西暦188年死去。157歳だったといいます。おどろくほど長生きです。現実に157歳生きたわけではないでしょう。存在そのものが架空か、年の数え方が現代とは違うか、年齢はあとから作ったのだと考えられます。
亀旨峰に葬られたといいます。現代では亀旨洞の古墳が許黄玉の陵墓だと信じられているようです。
許黄玉の出身地?アヨーディヤーとは
アヨーディヤーは古代インドにあった都市。古代コーサラ国の都でした。
コーサラ国は仏教の開祖ゴータマ・シッダールタの出身国だといわれています。
紀元前10ごろから存在し紀元前4世紀にマガダ国に併合されるまで存在した国だといわれます。マガダ国はその後も発展してマウリア朝となり、最盛期にはインドをほぼ統一しました。
そのため仏教関係の経典では神聖視される地域です。
現代のインドのウッタル・プラデーシュ州北部ファイザーバード県になります。
本当にインドの王妃だったの?
1~2世紀の古代にインドと朝鮮半島に交流があったのでしょうか?
常識的に考えて2000年前の人にインドから朝鮮半島までやって来る航海技術があったとは考えられません。地理的な距離を無視した妄想です。
だとすればどこから来たのでしょうか?
中国人説
インド人なのに「許黄玉」と漢式の名前を名乗るのは不自然です。もちろん帰化後に名前を変えることはできるので名前だけでは判断はできませんが。首露王のいた時代に中国風の一文字性を名乗る現地人はいません。首露王(金首露)も一文字姓をもちますが、漢に帰化した匈奴人の子孫の可能性があります。
2000年前の朝鮮半島で一文字性を名乗るのは中国人か中国の影響を受けている人、それとその子孫です。
中国式の一文字姓を名乗っている時点で中国文化が入っているのは間違いありません。許黄玉の伝説は意外と新しいかもしれません。
南方系の民族説
韓国の歴史学会は許一族の墓から朝鮮半島には珍しい南方系の遺伝子が見つかったと発表しています。だから許黄玉(ホ・ファンオク)はインド出身、海を渡って南方から来たと主張しています。
でも南方系=インドの証明にはなりません。日本列島にも南方系の遺伝子を持つ人はいるからです。
縄文人の祖先は幾つかの出身地があります。そのひとつが東南アジアなどの南方系の人々です。その南方系の縄文人の末裔が朝鮮半島に渡ったのかもしれません。現代の日本人なら地域によって差はありますが、1割(東京)、3割(沖縄)、8割(アイヌ)くらいは縄文人の遺伝子を持っています。その縄文人の遺伝子は南方の民族とも共通性があります。
日本でしか取れない翡翠や黒曜石が朝鮮半島で見つかっていますし、縄文末期から弥生時代の日本列島の人々はすでに朝鮮半島に渡っていました。彼らの中に南方系の縄文人の末裔がいた可能性はあります。
南方系の縄文人は台湾の先住民族や東南アジアとも共通の遺伝子をもちます。つまり何世代もかけて東南アジア・台湾→南西諸島→九州→朝鮮半島とやってきた可能性もあるのです。陸路か海岸線伝いに東南アジアから中国を通って朝鮮半島に来た人もいるかも知れません。
日本人からも南方系の遺伝子が見つかるのですから。南方系の遺伝子=インド人の証明にはなりません。
つまり、許黄玉は日本人と同じ祖先をもつ種族の可能性が高いです。歴史的事実でいえば、金官国のあった古代の朝鮮半島南部には倭人が住んでいました。許黄玉の一族とされる人は倭人だった可能性が高いです。
確かに縄文人の祖先は東南アジアから来ましたし、東南アジアの人々の祖先はインドから渡って来ました。数万年の単位でみればインドから来たというのはウソではありません。でもそれを言ったら韓国人の祖先のほとんどはモンゴル人か中国人です。
許黄玉の数万年前の祖先はインドにいたかもしれません。でも許黄玉や親がインドから直接来たわけではありません。
古代のインドが朝鮮半島に影響力を盛っていたわけではありませんし。まして朝鮮半島からインドに航海したわけでもないのです。
仏教の影響
仏教伝来後に祖先の話が脚色されたと考えられています。祖先が仏教の聖地から来たといえば箔がつくからです。
似たような話は仏教の広まった東南アジアにもあります。
でも首露王の時代に仏教は伝わっていないので。後の時代に作られた話しなのは間違いありません。
「三国遺事」を書いたのは高麗の高僧一然(1206~1289年)です。だから「三国遺事」には仏教の影響をうけた話が沢山載っています。
なのでインドのアヨーディヤー出身は仏教の影響を受けた作り話の可能性が限りなく高いです。
海洋民族?
許一族は海上交易を行う集団だった可能性はあります。
それが中国の沿岸部を拠点にしていたのか、日本列島から来たのか、沖縄、台湾あたりから来たのかはわかりません。そうした海で活動していた人たちの可能性はあるかもしれませんし、その勢力を首露王が取り込んで勢力拡大を狙ったのかもしれません。
結局。インドから来たというのは仏教の影響で作られた作り話。許黄玉(ホ・ファンオク)は海を渡って南から来たのかもしれないけれど、どこの国なのかはよくわからない。というのが本当のようです。
客観的にみて許黄玉がインド出身を証明する証拠は一つもありません。政治的、イデオロギー、商業的な理由でそう主張する人はいますが。許黄玉=インド人説はただの妄想です。
ちなみに日本語版の「wikipedia」ではインドと関わりがあるかのように書いています。wikipediaは素人が書き込むものですし。偏った情報をもとに誤った内容を書いているので信じられません。読むなら英語版をおすすめします。
ドラマ
鉄の王キム・スロ MBC 2010年 演:ソ・ジヘ
コメント