慕容宝(ぼよう ほう)は後燕の2代皇帝。
後燕は4世紀ごろに中国大陸に存在した国。遼東半島から現在の北京のあたりを領土に持つ国です。
正式な国号は「燕」。後世の歴史家が同じ名前の国と区別するため慕容氏の作った国は「後燕」と呼んでいます。
慕容宝は父が建国した広大な後燕を受け継ぎました。
しかし優柔不断で家臣のいうことをあまり聞かなかったためか。即位して数年で多くの領土を奪われました。国内で反乱も相次ぎ、最後は家臣に裏切られて殺害されます。
歴史上の慕容宝(ぼよう ほう)はどんな人物だったのか紹介します。
慕容宝(ぼよう ほう)の史実
いつの時代の人?
生年月日:355年
没年月日:398年
名前:慕容 宝(日本語読み:ぼよう ほう、中国語読み:ムロン バオ)
父:慕容 垂(後燕初代皇帝、ぼよう すい、ムロン チュイ)
母:段氏(成昭皇后)
活躍したのは4世紀ごろ。
高句麗の広開土太王と同時代に生きましたが、広開土太王より19歳年上。
日本では古墳時代になります。
おいたち
355年。前燕の将軍だった慕容 垂と制裁の段氏との間に産まれます。4男でした。
慕容 宝の家は前燕の皇族でしたが、皇帝とはあまりうまくいってなかったようです。
358年。冤罪で母を亡くします。
命の危険を感じたので父の慕容垂や兄弟と共に前秦に亡命しました。
前秦でも慕容一族の忠誠を疑う者はいました。兄の慕容令が策略にはまって死亡します。慕容 宝が慕容 垂の後継者になりました。
382年。前秦は東晋との戦いで大敗。前秦国内に動揺が走ります。慕容宝と伯父の慕容徳は、父の慕容垂に前秦の皇帝・苻堅(ふ けん)を殺して皇帝になるよう進言しましたが、慕容垂は受け入れませんでした。
後燕建国
384年。慕容垂は遠征先で反乱を起こしました。このとき慕容宝は苻飛龍の軍を撃破しました。
春、慕容垂は燕王を名乗りました。慕容宝は皇太子になりました。
慕容垂には継妃がいました。継妃の段元妃は自分の産んだ慕容農や慕容隆を皇太子にしようとしました。しかし重臣たちの間では慕容垂を支持する人が多かったようです。
慕容垂が遠征に出ている間は、慕容宝が都の中山を守りました。慕容垂は62歳と高齢だったので重大事以外の国事は慕容宝にまかせていました。
391年。北魏と後燕が対立。
395年。慕容宝、慕容農、慕容麟は8万の兵で北魏を攻めました。慕容宝は部下の進言を聞かずに大敗。単騎で逃走しました。無事帰ることができたのは数千にすぎませんでした。
396年。慕容垂が病死。慕容宝が皇帝になりました。
後燕皇帝になる
慕容垂は死亡前に慕容会を継の皇太子にするよう遺言を残していました。しかし長子だったものの庶子だった慕容盛はこの決定が不服でした。慕容宝も慕容会にあとを継がせるのは不満でした。そこで慕容盛と慕容策のどちらかを皇太子にするか検討したところ、慕容盛が譲歩したので慕容策が皇太子になりました。
397年。慕容宝は北魏と戦って敗北。中山を守っていた慕容詳(ぼよう しょう)が皇帝を名乗り反乱を起こしました。慕容詳は慕容宝の家族ではなく前燕の皇族でした。
慕容宝は黄龍に逃げました。息子の慕容会が助けに来ました。ところが慕容宝は慕容会の兵を奪って慕容農に分け与えました。慕容会はこの行いに怒って慕容宝を攻撃しました。慕容宝は龍城まで逃げましたが、城を包囲されました。このとき侍御郎の高雲が慕容会を破って慕容宝を助けました。慕容宝は高雲を養子にして夕陽公に任命しました。
同じ頃、弟の慕容麟が反乱を起こして皇帝を名乗りました。慕容会は慕容詳に殺害され、慕容詳は慕容麟に殺害されました。
398年。慕容宝は息子たちの反対にもかかわらず、北魏に奪われた領土を取り戻すため遠征に出ました。ところが途中で遠征に疲れた兵が反乱を起こしたため退却します。
反乱軍の攻撃に慕容農が降伏。慕容宝は逃走しました。その後、家臣の蘭汗が龍城を奪回。
慕容宝は南を守っていた慕容徳のもとに逃走しようとしましたが、既に慕容徳は皇帝を名乗り独立していました(南燕の建国)。諦めた慕容宝は蘭汗が奪回した龍城に入ろうとします。慕容盛は反対しましたが、慕容宝は龍城に入ったところを蘭汗の弟たちに殺害されました。
その後、慕容盛は蘭汗を殺害。皇帝に即位しました。
テレビドラマ
広開土太王 KBS 2011年 演:イム・ホ
韓国ドラマ「広開土太王」でも慕容宝(劇中での発音はモヨン・ポ)が登場します。イムホ演じる慕容宝は、ドラマ序盤では高句麗の皇太子・タムドクと死闘を繰り広げます。ですが、歴史上の慕容宝はタムドクとは直接戦っていません。それどころかドラマ冒頭の390年代の高句麗と後燕との大きな戦争も記録にはありません。架空の話なんですね。
韓国ドラマ「広開土太王」は「史実が歪曲されている」と韓国でも問題になったドラマです。劇中で起こった慕容宝とタムドクの話は作り話と思ったほうがいいですね。
慕容宝の時代は高句麗と戦うことはほとんどなく、中国大陸の国々と戦っていました。後燕と高句麗が戦うのは息子の代になってからです。
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